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ロシア・チェリャビンスク核工場 |
旧ソ連は核兵器開発のため、1945年、このウラルの森の中にプルトニウム生産工場を造ることを決めた。
テチャ川水系の豊富な水と秘密を守れるウラルの深い森は核兵器生産に最も適した土地だった。計画から2年半で暗号名チェリャビンスク40(現在はオジョールスク)という秘密都市が建設された。ここは最近まで地図にも載せられていなかった。
現在も、ロシア人すら入ることができない秘密都市だ。
1948年最初の原子炉が動き出し、プルトニウムの生産が始まった。プルトニウム生産コンビナートは「マヤーク」(灯台)と呼ばれた。マヤークは3つの機能を持っていた。1,ウランを燃やす原子炉 2,使用済み燃料からプルトニウムを取り出す再処理工場 3,プルトニウム金属加工する核燃料転換工場である。ここから出た大量の液体放射性廃棄物はテチャ川に垂れ流された。垂れ流しは1949年から50年代半ばまで続き、放射能は曲がりくねったテチャ川のよどみに滞留し沈殿し周辺の村々を汚染したのだ。放出された液体放射性廃棄物は275万キューリーに及ぶ。テチャ川の周辺住民12万4千人が被曝し、白血病、ガン、先天性異常などで倒れて行った。さらに、1957年の放射性廃棄物貯蔵タンク爆発事故,1967年には液体放射性廃棄物を投棄していたカラチャイ湖が日照りで干上がり放射性廃棄物が粉塵となって風で運ばれ、2,700平方キロが汚染された。
このテチャ川流域には39の村があり、29万人が暮らしていた。そのうち20の村、およそ1万人が理由を告げられないまま強制的に移住させられた。しかし、上流の村が移住させられず、そのまま取り残された村があった。そのひとつ、マヤークから78キロ、もっとも上流にあるムスリューモボ村を訪ねた。現在も4000人が暮らしている。平均寿命は著しく低下し,村人の多くが心臓病や骨の痛みを訴えている。村人の中には「被爆データーを取るために残されているのではないか」と疑っているものもいる
[取り残されたモスリューモバ村]
チェリャビンスクから北に車で1時間ほど走ると、ハイウエーの道ばたに黄色と赤の放射能のマークが書かれた看板が目に入る。「テチャ川」「危険1000マイクロレントゲンの放射線量あり」と書かれている。最近立てられた看板だ。幅は100メートルもない小さな川だ。透き通った水は放射能で汚染されているとは思えない。そこから,国道を右折ししばらく走るとムスリューモバ村だ。村の中央をテチャ川が流れている。
テチャ川の土手に立つと有刺鉄線が所々破れ、そこから入り込んだ牛がのんびりと草を食べ、アヒルの親子が流れの緩やかなところで泳いでいる。錆びた鉄製のプレートにやっと判読できる放射能のマークが書かれてあった。ここが今も汚染地帯であることを示す唯一の印だ。持って行った放射線計測器は東京の百倍近くあった。
「プォーーーー、プォーーーー」ムスリューモバ駅に停車していた列車から、突然汽笛が響きわたった。駅前の大通りをこの駅の女性駅長であったカリンチック・ガリーナ・ペトロブナ(42)さんの葬列が通り過ぎたからだ。カリンチックさんはこの村で生まれ、結婚し二人の子どもと夫の4人暮らしだった。死因は膵臓ガンだ。幼友達のガビロフ・グスマンさん(41)は「子どもの頃、カリンチックさんと一緒にテチャ川で水遊びや魚釣りをして遊んだと」という。長く鳴り響く汽笛は村中を悲しみに包んでしまった。
グスマンさんの父親は警察官だった。グスマンさんが小さい頃テチャ川の土手に有刺鉄線が張り巡らされ、村の人たちが入れないようになった。理由は知らされなかった。警察官の父親は土手に立ちその警備に当たっていた。父親は9人の子どもたちを残して44歳で亡なくなっった。村で初めての白血病だった。このとき、警備していた警察官たちは全員ガンで亡くなったという。 「どこからきた、ジャーナリストか?ワシの体を写真に撮ってくれ、モスクワのエリツィンに見せてやってくれ」と言うなり、ズボンを脱いだグスマノフ・ワフィルさん(77歳)の両足は慢性の関節痛と度重なる骨折で膝から内側に曲がっていた。57年から61年まで汚染されたスターレクルマノワ村の汚染除去作業に当たっていた。トラクターの運転手でテチャ川を1日に4回渡ったという。74年ころ、重いものを持ち上げようとしたときに骨折してしまったと。歯も抜け、慢性的な関節痛で悩まされている。医師は原因が分からないと言うがグスマノフさんは「マヤークの出した放射能のせいだ」という。タタール人のグスマノフ・ワフィルさんは「下流の村はとっくの昔に引っ越したのに上流のムスリューモバ村だけが取り残された。住民は毎年、定期的に血液を採られたり,検査を受けさせられる。まるで人体実験されているようだ」という。
知らされず,自ら調べることも許されなかった核汚染。政府のやってきたことに従わざるを得なかった半世紀,自分たちの無力さをあざ笑うかのように酔っ払った男たちは,ふらつく足取りでテチャ川におり,汚染されている水を手にすくって飲んでいた。 ホテルに来たバシキール人の男
人体実験の噂は私が今年2度目の取材の時も聞いた。取材を終えて帰国する朝、
チェリャビンスクのホテルに現れた男がどうしても話たいことがあるとロビーに現れた。
彼は名前は000、歳は45,6才と言うところか?少し猫背で、当たりを警戒する鋭い目だけが薄暗いロビーに不気味さを漂わせていた。
彼は静かに自己紹介をした。自分はバシキル人であること。マヤークの事故によって被害を被った村に住んでいたこと。
テチャ川汚染流域にはバシキール人やタタール人の村があった。ロシア人の村はいち早く移住させたが、少数民族の村はそのままおかれた。
「バシキール人はロシアの植民地にされ絶滅の危機にたっている」と静かに訴えてきた。さらに、チェリャビンスク周辺の手書きの地図を広げ、
テチャ川流域のバシキール人、タタール人の村がどのようになったのかを説明しはじめた。1955年流域の4つの村は、
マヤークに近いベルシュンシュウ村に移住させられた。
しかし、もっと上流のロシア人の村はマヤークから100キロ近く離れたチェリャビンスクの近くに避難させられた。
バシキール人たちが移住させられた新しい村はその後1957年「ウラルの核惨事」によって再び汚染された。
「バシキール人はモルモットの用に扱われた」とガジス・ユスグイン氏(53歳・チェリャビンスク在住)さんは言った。
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