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ムスタファの村2003/3/11 写真追加しました。 | |
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バスラは9月下旬なのに40度を超えそうな日が連日続いていた。 ムスタファと始めてあったのはバスラのイブン・ガズワン小児病院を自主制作のドキュメンタリー映画(仮題:世界の終わりに)製作中の鎌仲ひとみさんとともに訪ねたときだった。 病院の医師に我々の取材趣旨を話すと、白血病で治療中のムスタファ(9)少年と父親のキリ(46)を紹介してくれた。お父さんに村に行って、家族と村の生活を撮りたいというと、快く引き受けてくれた。 ムスタファの村はバスラの北100キロにあるチグリス川とユーフラテス川の合流地点に近いクルナ地区のアル・アラルワ村だ。 人口1200人の小さな村は、野菜や牧畜で暮らす、平和で静かな農村だった。 ムスタファは2年前に白血病になり治療を続けていた。 しかし、治療に必要な抗がん剤は、経済制裁の影響でいつも不足し、時々治療が中断してしまう。 そのため、ムスタファの病状は一進一退を続けている。 イラクではムスタファのような白血病やがんの子どもたちがたくさん亡くなっている。 ほとんどの物資を輸入に頼っていたイラクは経済制裁の結果、経済活動は麻痺状態に陥ってしまった。 とりわけ、食糧、医療部門などは悲惨な結果を生み出した。 白血病やガンの急増の原因は11年前の湾岸戦争でアメリカとイギリス軍が始めて使った放劣性兵器・劣化ウラン弾が環境を汚染したからだ。 特にイラク南部の町や村には白血病やガンで亡くなる人が多くなっている。 湾岸戦争当時この地域にたくさん劣化ウラン弾が使われたからだ。 アル・アラルワ村は軍事基地や発電所があるため、猛烈な爆撃を受けたという。 そのときに劣化ウラン弾がたくさん使われた可能性がある。 村の生活は貧しくムスタファの家も例外ではなかった。100キロ離れたバスラの病院にまで通院することはお金もかかり大変なことだ。両親はムスタファの病気を治すために必死で働いていた。バクダッドの病院では子どもの白血病の薬を買うためマイホームを売り払ってしまったという話をよく聞いた。 そういえば、ムスタファの家には冷蔵庫と扇風機、写りの悪いテレビがあるだけで家具らしいものは何も無かった。 ムスタファの担当医であるイブン・ガズワン小児病院のジナーン医師は「経過は順調だが薬がいつも不足している」と暗い顔をして言った。 バスラ・サダム教育病院のジュワード医師は1996年以降、経済制裁緩和措置である「OIL&FOOD」プログラムで医薬品が入手できるようになったが、慢性的医薬品不足の裏側をこう告発した。 「イラクが発注した医薬品を外国製薬会社は納品を意図的に遅らせ、治療のタイミングを逃してしまうケースがたくさんある。国連やアメリカは”イラクは医薬品を十分輸入しているではないか、それなのに経済制裁で医薬品が無いと不平を言う”と批判するが事実は納品の意図的なサボタージュだ。その患者に必要なときに必要な薬が欲しいから注文を出すのに。投与の時期を逸した薬はその患者に仕えない。時期を失った薬は無駄になり、結局患者を死なせてしまう。イラクの子どもたちの命が弄ばれている」と。 そんな深刻な状況の中でもムスタファの家族や周りの子どもたちは元気で明るい。 取材一日目からムスタファの家には近所のたくさんの子どもたちが我々外国人を見ようと押しかけてくる。どの子がムスタファの兄弟姉妹なのかわからない。 カメラを向けるとみな写真を撮ってくれと集まってくる。もちろん近所の子どもも一緒に。 ムスタファと近所の子どもたちが近くの広場に大砲の弾が落ちているというので連れて行ってもらった。 ムスタファの自宅から200メートルほどの広場に一抱えもある不発弾が転がっていた。 これは子どもたちの遊び道具になっている。しかしまだ爆発する可能性のある危険なものだ。 2年前にも、近くで地雷を拾って遊んでいた近所の子どもが4人犠牲になった。湾岸戦争のときアメリカ軍が落として行ったものだ。 村は今でも戦争の傷が残っている。 近くのユーフラテス川に行った帰りのことだ。 畑道を歩いていた鎌仲さんに一人の労農夫が近づき、「日本は何でアメリカに協力するんだ。 アメリカはイラクをこんなにメチャメチャにした。俺の着ているものはこんなにボロボロだ。こんなに貧しい国にしたのはアメリカだ。 日本はアメリカと一緒になって俺たちの首を絞めようとしているんだ」と叫ばれた。 しかし、彼女は老農夫になんと答えて良いのか困っていた。 母親のファウジーヤさんはアメリカの攻撃が来ることをとても心配していた。 「私たちはイラクという独立国で平和に暮らしているだけだ。 攻撃してくるのはいつもアメリカだ」と静かに言ってムスタファの妹マラル(6)をひざの上に引き寄せた。 順調に取材が進んでいた3日目の午前中、情報省ガイドのアッサードがこの地域の管轄事務所に呼ばれて午前中一杯帰ってこなかった。 午後シェスタ(昼寝)が終わって母親のインタビュうーが終わったころ、突然アッバースが取材は打ち切りだと言い出した。 その理由を話さないまま、ひどい剣幕になったアッバースを見て、これは何かあると思い、取材を中断し、バスラのホテルまで引き上げることにした。冷静になったアッバースの説明では、我々がバクダッドの情報省からもらってきた許可証にはバスラ近郊の村に2日間の滞在しか書いてないというのだ。 その許可証を見せられてもアラビア語で書かれたものだから我々はわからなかった。地区の行政責任者に指摘されたらしい 許可証には2日の滞在許可、しかし、すでに3日目の取材。アッバースは仕方なく引き上げざるを得なかったのかもしれない。 イラクでは地方政府の言ったことは、中央政府も従わなければならないという鉄則があるということを後にバクダッドで聞いた。 我々はその夜、バクダッドに電話し、私の取材を外務省サイドから手伝ってくれているある人物に、事態打開のため力を貸して欲しいと電話した。驚いたことに彼はバクダッドから遠くはなれた農村で起こっている事態をすでに知っていて、明日から取材が再開できるように手を打っている、という答えが返ってきた。これには私も鎌仲さんもびっくりした。 というより、ちょっと恐ろしくなった。我々の行動は全てどこかで監視されていたことが、この事件でわかったからだ。 しかし、我々は後ろめたいことをしているわけでもないし、むしろ、前向きに考えて「我々のことを見守ってくれる」と思うことにした。 翌朝は早朝から出発することが出来た。 朝7時過ぎ、畑に行くとチグリス川から引いた用水路の水を動力ポンプで畑に汲み上げているお父さんのキリの姿があった。 白いターバンを頭にまき、黄ばんだ白い服を着た彼の体が朝日の逆行を浴びて痩せた体がシルエットとなって見えた。水が静かに水路に流れ込むと、土の中に隠れていたカエルが次々と顔を出してきた。 畑では姉のナワル(17)さんがお母さんのファウジーヤ(38)さんと一緒にオクラの収穫をしていた。かごにいっぱいになると近くの市場売りに行った。オクラはスープにするととてもおいしくイラクの人たちには人気のある野菜だ。 しかし、お父さんはあまり儲からないといっていた。 貧しくとも、平和に暮らしている人々がいた。そんな人々の暮らしがいつまでも続くように願わずに入られなかった。 しかし、バスラ滞在中毎日空襲警報が一晩で何度も鳴り、ベッドから飛び起こされた。戦争は確実に近づいているようだった。 |
追加 2003/3/11 | |
ムサタファの妹 |
ムスタファは双子の弟(左)といつも一緒にいる。 |
ムスタファと兄弟姉妹と近所の子どもたち |
クルナの人々 |
羊飼いの隣のおじさん |
ムスタファの母と妹と近所の子どもたち |
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