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マーシャル諸島(ビキニ水爆実験) 目次
  1. ビキニ水爆実験 被曝者はいま
  2. 被曝2世のジョカネ・マタヨシさん
  3. 誕生日プレゼントは水爆実験だった
  4. プロジェクト4,1 ― 人体実験の疑惑
  5. 温暖化

4,プロジェクト4,1―人体実験の疑惑

マーシャル諸島 レポート


人体実験の疑いを説明する核被害補償裁定所(NCT)のアメリカ人ビル・グラハムさん。
 1954年3月1日の水爆実験によって、風下のロンゲラップ島は激しく汚染されてしまった。アメリカは強く帰島を希望した住民の願いに応え、3年後の1957年6月に住民を帰郷させた。しかし、島の残留放射能は人間が住めるレベルではなかった事をアメリカ原子力委員会(AEC)は知っていたにも関わらず帰島を許可したのだ。
 当時、アメリカ国内で湧き起こっていた「核実験反対の声」を押えるため、「残留放射能は何年も残らない」事を証明する必要があった。そのため残留放射能で危険な事は知らせず島に帰島させたのだ。
 もう一つはプロジェクト4.1と呼ばれている極秘研究だ。核実験によって得る必要のあるデータは単に爆発による威力だけでなく包括的なデータを研究する必要があった。そして研究テーマごとにプロジェクト1,1、1,2・・・などという番号がつけられていた。その4.1にあたるのが「放射線被曝した人間に関する研究」だった。
 「(住民の帰郷は)高いレベルの放射線を浴びた少数の者が再び高い放射線にさらされると言うことである。このことは、あなたが広島、長崎で行っている遺伝的調査を行う上で理想的な状況であり、重要である。全米科学アカデミー委員会が重要視している一般的には劣性遺伝子と呼ばれているものへの影響を観察できる絶好の機会である」(「マーシャル諸島核の世紀」豊崎博光 日本図書センター)とアメリカ原子力委員会生物医学局ベントレイ・グラス博士はチャールズ・ダンハムAEC生物医学局局長に帰島を検討する会議の中で話している。そして、帰島時に81人とその後生まれた胎内被曝者4人の被曝住民にはグリーンのカードを、核実験当時島に居なかった165人の非被曝住民にはピンクのカードが持たされた。
 つまり実験の時ロンゲラップ島にいて被曝した島民と実験の時に同島におらず被曝しなかった非被曝者の二つのグループを汚染された島に戻したのだ。そして、残留放射能で汚染された島で暮らすことによる影響を継続して調査していた。「アメリカは検査だけして治療らしき事はちっともしてくれない。だから検査を受けたくない」と拒否する住民もいた。
 マーシャル政府はプロジェクト4.1を人体実験だとして追及しているが、アメリカは今なお解明に必要な未公表秘密文書の公表を拒み、人体実験を否定している。
 3年ぶりに、帰郷した島民は島の異常に気づき始めていた。今まで見たこともない二股のヤシの木が生えていたり、避難する前には食べても異常はなかった魚が毒をもっていたり、出産異常や流産が多発した。そして、大人達も次々と病気になっていった。  ここに住み続けていたら全員が殺されると、ロンゲラップから脱出する事を決意し、1985年、国際環境団体グリーンピースの援助でクワジェレン環礁の無人島だったメジャット島に移住した。  自然の恵みをうけ、自給自足の暮らしをしていた島民は核実験によって、住み慣れたふるさとを奪われ、生活の基盤を失った。
 核実験は健康を蝕むだけではなく生きる権利を奪い去ってしまった。さらに人体実験は人間の尊厳を根こそぎ奪う許し難い行為である。アメリカは疑惑解明のために未公表の秘密文書を公表する義務がある。

※参照写真
放射性物質を投与したという、エドモンドさんら数人の島民に届いた、アメリカ政府からの手紙。人体実験の証拠だ。

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