マーシャル諸島 レポート | |||
アメリカはここで1946年から1958年までに67回原水爆実験を行った。その総破壊力はTNT火薬に換算して100メガトン以上と言われている。これは19年間にわたって毎日、広島に落とされた原爆と同じものが爆発したことになる。 特に1954年3月1日の水爆・ブラボーショットは最大の破壊力だった。広島原爆の1千倍ものエネルギーを一瞬にして放出したブラボーはビキニ環礁の3つの島をこの地上から消滅させた。その跡には直径2000メートル、深さ80メートルの巨大なクレーターが今も真っ青な水をたたえている。 ビキニの爆心地から東、160キロメートルには操業中の第五福竜丸がいた。その他1000隻近くの漁船が被曝した。そして、水爆マグロと呼ばれた汚染マグロは全国各地の遠洋漁業の港に水揚げされ、日本中をパニックに陥れた。そして、9月には第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが亡くなり、広島、長崎に次ぐ3番目の核兵器の犠牲者となった。この事件は日本国内の核兵器廃絶の運動の盛り上がる契機となった。 実験が行われたビキニ環礁の東180キロに浮かぶロンゲラップ島には67人が当時暮らしていた。 1947年3月3日生まれのリジョン・エクニランさんは7回目の誕生日である1954年3月3日の朝を迎えた。
それから3年後の1957年アメリカは住民の要望に応えて帰島許可を出した。「島に帰ると住民がみんな病気になり、異常出産が増えました。モンスターベービーが次々と生まれたのよ。クラゲやブドウのような赤ん坊が生まれると、すぐに隠して埋めました。放射能が降ってくる前にはこんな事はなかったのよ」と女性たちの辛い過去を話してくれた。 彼女自身も7回死産を繰り返したのだ。 この帰島許可は島民の願いに応えたものだったが、許可を出したアメリカは別の思惑をもっていた。アメリカ原子力委員会(AEC)などはロンゲラップ島の残留放射能調査をたびたび行っていた。土壌や食糧となる植物、魚介類は高レベルの放射能で汚染され、島は人間が住めるほど安全ではなかった。そのことを一番よく知っていたのはアメリカだった。 AEC生物医学局がおこなった帰島させるか否かの議論の中でベントレイ・グラス博士は「高いレベルの放射線を浴びた少数の者が再び高い放射線にさらされると言うことである。劣性遺伝子と呼ばれている者への影響を観察できる絶好の機会である」と言っていた。そして帰島の際に、81人とその後生まれた胎内被曝者4人の被曝住民にはグリーンのカードを。165人の非被曝住民(ブラボー実験の時に島にいなかった。すなわち被曝していない住民)にはピンクのカードが手渡された。(「マーシャル諸島核の世紀」豊崎博光 著) これはブラボー実験で被曝した住民と実験の時に島にいなかった住民の二つのグループが残留放射能で汚染されたロンゲラップ島で暮らすことによる影響を継続して調査していたことを示している。 「我々はモルモットにされたのです。人間として扱ってもらえなかったのです」とリジョンさんの射すような眼差しは怒りに燃えていた。
翌日、リジョンさんの家を訪ねた。病院から戻ってきたばかりで、汗ばんだほほをタオルでぬぐっていた。その顔には幾筋もの深いしわが刻まれていた。 通された部屋のテーブルには血圧降下剤、鎮痛剤、胃腸薬、ホルモン剤、心臓発作の錠剤など8種類もの薬があった。「薬剤中毒になったエルビス・プレスビーのように毎日飲んでいる」とけだるそうに言った。 リジョンさんは「私たちのような被曝者を生み出さないように世界中の人に核被害の恐ろしさを伝えたい」と静かに語った。 核実験の時に島にいたロンゲラップ島民は高齢化がすすみ、望郷の念をつのらせている。しかし、いまだふるさとの島は人が住む事を拒絶している。 |
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