1989年2月26日カザフスタン作家同盟第一書記のオルジャス・スレメノフさんは、 全ソ連人民代表者会議のテレビ演説で用意した演説原稿をスーツの内ポケットにしまい込んだまま、 こう呼びかけた。 「今月。二度の実験で有毒な物質が大気に放出した。危険は核実験が始まった40年前から続いている。 二日後、首都アルマティーで抗議集会を開こう」 選挙演説を聞くためにテレビの前に集まっていた国民は、これまで心の中につかえていたものが堰を切って 流れ出したのを感じたに違いない。これがソ連の核実験被害を公然と語った初めての言葉となった。 うねりは全国に広がり、カラカンダの炭坑ではゼネストに突入し、石炭の供給をストップさせ、 モスクワに圧力をかけた。「ネバダ・セミパラチンスク・運動」には、セミパラチンスクとネバダ、 ビキニ、ポリネシア、ヒロシマ、ナガサキ、そして世界のヒバクシャが連帯して被曝(爆)者の 救済、核兵器廃絶のためにたたかおうという意味が込められている。 1991年12月16日、カザフスタン共和国独立、ナザルバイエフ大統領は核実験場閉鎖令を出した。 |