1954年3月1日村長をしていた、ジョン・アンジャインさん(28才=被曝当時)早朝、西の空を見ていた。突然、西の方から赤や黄色、真っ白い光が水平線の彼方から立ち上ってきた。その後大きな爆発音と島全体が揺れ、爆風で木が倒れ家や机が倒れた。10時ごろになると死の灰が降ってきた。飲んでいたコーヒーの中にも死の灰が入ってきた」と当時をふりかえる。
ジョンさんが見たのはアメリカ最大の15メガトン水爆「ブラボー」の実験だったのだ。
アメリカは1946年7月、4番目の原爆を中部太平洋マ−シャル諸島のビキニ環礁で爆発させた。以後13年間にビキニ、エニウェトクの2つの環礁で66回の核実験を行なった。
このビキニ水爆実験によって第五福龍丸など日本のまぐろ漁船2000隻余りが被曝した。
実験の行われたビキニ島からロンゲラップ島までは180キロも離れていたが、「死の灰」が2〜3センチも降り積もった。やがて発熱、嘔吐、下痢が島民を襲った。
この日島民が浴びた放射線は、致死量をはるかに越えていた。翌日、アメリカ人がやってきて水や食べ物を食べてはいけないと云いった。しかし他に食料の無い島民は汚染された物を食べざるを得なかった。
やがて米軍基地のあるクワジェレンに収容された島民は治療らしきものはいっさい受けられなかった。実験から3年後、アメリカは「安全宣言」を出し島民を帰島させた。しかし、島は高濃度の放射能が残り人が住める状態ではなかった。島民は甲状腺ガンや白血病などで次々と亡くなって行った。
近年明らかになったことだが、この時、ロンゲラップ島民を帰島させた目的は実験当時の被曝者のグル−プと当時島外に居たグル−プを残留放射能のあるロンゲラップ島に返しその後、2グル−プの追跡調査を密かに続けていた。「私たちはモルモットにされたんです」とジョンさんは悔しそうに唇をかみ締めていた。