カザフスタン (セミパラチンスク)レポート
9月22日
セミパラチンスクはすっかり秋の気配です。紅葉も始まっています。
今日9月22日は少し風が強いですが晴れて、とても気持ちの良い天気です。 2年ぶりのセミパラチンスクは道路も良くなり、少し、経済も上向きのような気もします。
バザールでリンゴとプルーンを買った。
1キログラム110円
セメイホテル前。
街路樹が色づき始めていた。
ホテルに迎えに来てくれた、アキンバイさんの奥さんアリアさん(左)と通訳の山田さん、末っ子のオルジャスくん(右)
昨日、カイナール村に行く予定でしたが、迎えのアキンバイ先生が、 セミパラチンスク市の議会議員の選挙に出馬しそのための仕事で、 セミパラチンスクで済ませなければならない用事があり、一日カイナールに行くのを延期せざるを得ませんでした。
2001年冬に泊まったセメイホテルにチェックインし、セミパラチンスク医 学アカデミーの元副学長マラートさんに電話すると、なぜ来る前に知らせないの か?と問いつめられてしまった。急にも関わらず、夕食に招待したいから、7時ホテルに迎えに行くと言われ、ありがたくマラートさんの家に行くことにし た。
マラートさんの家はすっかりリニューアルしてきれいになっていた。自宅の畑 で取れたトマトや、豆などで奥さんの心づくしの手料理をご馳走になった。 9時過ぎにホテルに戻ると、アキンバイさんが奥さんと末っ子のオルジャスくん を伴って来てくれた。
選挙はセミパラチンスク市議会選挙で、東カザフスタン州になってからカイナー ル村もセミパラチンスク市に入っている。カイナール村のあるアブラリンスキー地区と ジャナセメイスキー地区が一つの選挙区になっており、定数一人だから小選挙区制だ。 第一回投票で投票総数の過半数を取れない場合は上位の二人が再投票をして、 多い方が議員になれるという仕組みだ。アキンバイさんの地元アブラリンスキー地区では 有権者5000人のうち95%は確保できる。 相手候補の地元、ジャナセメイスキー地区の有権者は7000人。 そこでもアキンバイさんの票が取れなければ勝てない。
でも、彼は楽観的。私が行って選挙運動が出来なくなっても、いっこうに気に することもない。大丈夫お構いなし。必ず勝てる、と大きな声でいっていた。 外国から来てくれた客をもてなす方を優先させるというアキンバイさんには本当に申し訳ない。
午後から、カイナールに出かける。
カイナール村に到着の夜、村の病院長のアキンバイ先生と話し込んでいたら、明日葬式があるから参列するという。 65歳の男の人が肺癌でなくなった。
3年ぶりのカイナール村は少しずつ変化していた。
最っとも驚いたことは、アキンバイさんがセミパラチンスク市議会議員に立候補していた。 以前、村長になって欲しいと村の人たちから頼まれても拒否していたのになぜ?
「カイナール村の村民の健康を守るためには病院だけでは解決できない問題が沢山ある。 水道や、住民の失業問題や、教育、道路整備など課題はたくさんある。 総合的に解決しなければ健康で豊かな暮らしは出来ない事を20年間病院の院長をやってきてよくわかった。 昨年、病院の改修を市の予算を取ってきて行った。私が、セミパラチンスクに何度も通い、市と直談判してようやく実現したのだ。 病院の改修事業を通じて住民は=政治を変えなければ暮らしが良くならない=ことを知るようになり、 今回村人から押されて市議会議員に立候補した」と立候補の弁をアキンバイさんが身振り手振りで熱く語ってくれた。
話し込んでいたら、12時を回っていた。突然、応接間においてある電話が鳴った。 眠そうな奥さんのアリアさんが出ると、妊婦が産気づいたという知らせだった。
病院の運転手さんが迎えに来てあわただしく準備をして夜更けの暗闇の中に出ていった。 西の空に火星が一つだけ輝いていた。他に星はなく、雲に覆われているらしい。 静寂の村は、犬の遠吠えと、冷たい風の吹き抜ける音だけがしていた。
9月23日
昨夜の夜更かしが祟って9時まで眠ってしまった。外に出ていくと、庭や車の上にうっすらと雪が積もっている。 5分もしないうちに耳が痛くなってきた。9月末だというのにすでに冬が始まっていた。
ニワトリに餌をあげてきたアキンバイさん
アキンバイさんがニワトリに餌をあげていた。昨夜、羊よりニワトリを食べさせてあげると言ったのを思い出した。 このニワトリが今日の食卓に上るのだろう。
牛は今何頭いるのかと聞いたら、 息子のエルザットが今年、セミパラチンスクの大学に入ったのでその資金を作るために売ってしまったと言っていた。 牛小屋は空っぽになていた。
アリアさんは朝方帰宅し、まだ眠っている。アリアさんが目覚めたら、生まれたばかりの赤ちゃんをみせてもらおう。
昼食後、アキンバイさんの家の近くのアルアさんの家に行った。
脳障害のある兄のムサ君は3年前まで意味のある言葉をほとんど喋れなかった。 両親がアイマンを生む前に、妹が出来ればきっとムサも言葉を喋るようになって くれると期待して2人目を生んだのだった。 小学校に上がったムサ君は傷害のことを理解してくれる先生にも恵まれ、 少しずつ言葉を話しようになった。
アイマンちゃんの家族の記念写真
ここは2年前にNHKスペシャル「誕生の風景」制作で取り上げた家族だ。 私もこのとき番組制作のお手伝いをさせていただいた。 2001年1月のことだった。新世紀に生まれ出る命の風景。 その一つに選ばれた核実験場の村。核実験被害に苦しみながらも、新しい命をはぐくむ人々の姿はとても感動的でした。 そのとき生まれた、赤ちゃんはどうなったのか、知りたくて訪ねることにした。
そのとき生まれた赤ちゃんの名前はアイマン。 ちょうど日本語とカザフ後の通訳で来ていたカザフ人アイマンさんの名前をもらってつけられた。 すでに3歳になっていた。玄関でお母さんのアルアさん(31)が迎えてくれた。 足下にまとわりつくように真っ赤な洋服を着た目のくりくりした女の子があらわれた。 アイマンちゃんだ。ちょっとはにかんで、お母さんの後ろに隠れてしまった。
「お父さんは石炭を取りに行ったの」と片言の言葉を喋っていた。 お父さんのクワンドックさん(33)は近くの炭坑から石炭をトラックで運ぶ仕事をしていた。
アルアさんのお母さん、バケットさんとクワンドックさんのお母さん、アルムジャンさんが来てくれた。 バケットさんはムカタイ・ヌルワノフさんのお葬式があったので、村に来ていた。 普段は核実験場の近くのジモーフカに住んでいる。 (ジモーフカはソフォーズの最小単位の集落) バケットさんとアルムジャンさんに核実験の行われていた当時のことを聞いた。 「地平線の彼方からキノコ雲が湧き起こり、大音響と地震が起こった。窓ガラスが割れ、食器棚から食器が落ちて割れた。 核実験の度に地震が起こった。小さかったアラアさんを抱いて屋外に出た。だからアルアも死の灰やガスを吸った。 実験直後は吐き気や頭痛がした。1963年に生まれた娘は障害者で施設に入っている。 1986年に生まれた息子は足がむくみ、心臓が悪い。
昨夜12時過ぎに出産の為に呼び出されて、ほとんど眠っておらず、翌日午後倒れてしまった。
病院から看護婦さんが来てビタミンの点滴を打ってもらっていた。
お母さんになったマルジャンさん(23)と産科医のアリアさん
ポリゴン(核実験場のこと)が無ければ普通に生まれるはずだった。両親、姉、弟みなガンで死んだ。 40年間知らされすに被曝していたんだからみなガンになるよ」と二人は恨めしそうに言った。
アリアさんは昨夜からの寝不足と過労で、風邪を引き倒れてしまった。熱と頭痛がすると風邪声で言っていた。 午後、看護婦さんが来てビタミンの点滴を受けていた。
夕方、「もう大丈夫」と言って起き出してきたアリアさんと病院の産科病棟に入院している赤ちゃんを見に行った。 赤ちゃんとお母さんになったマルジャンさん(23)は四畳半ほどの部屋のベッドに寝ていた。 体重3560グラムの元気な男の子だった。
彼女はカイナール村の出身でいま、ドガラン村というカイナール村から50キロ西の村に嫁いでいった。 「お父さんが男の子が産まれたのでとても喜んでいる」とアリアさんに報告していた。
9月24日
小雪が舞ってうっすらと白くなったカイナール村
3日目の夕方、アキンバイさんのいとこの住むジモーフカに連れていってくれた。
冷たい霙混じりの雨が降っていた。 地下核実験の行われた、デゲレン山に行く道を東に折れてしばらく行くと、山裾に一軒の遊牧民の家が見えてきた。 近くには廃屋となった土台の煉瓦が転がっていた。昔は数家族が住んでいたらしい。 アキンバイさんのいとこは、牛や馬、羊を村の人々から預かり、放牧をしている。 みぞれまじりの中を馬に乗せてもらった。 「もう冬が始まったね」といとこに言うと「まだだよ。冬はこれからだ」と笑われてしまった。 東京の冬の事を思って言ったのだが、「ここの冬はこんなものじゃない。厳しい冬はこれからだ」と言いたかったのだろう。
9月25日
セミパラチンスクに戻る日の午前中、肺ガンで3日前に亡くなったムカタイ・ヌルワノフさんの家を訪ねた。 奥さんのイルムケッシュさん(57)に会って話を聞いた。
ヌルワノフ・ムカタイさんの葬儀
葬儀に間に合わなかった。村の人たちが墓地から埋葬を終わって帰ってきた。
昨年、突然血を吐いて、セミパラチンスクのガンセンターで肺ガンと診断され手術を受けた。 今年になって、もう一方の肺にも転移していることがわかったが、自宅で治療していた。 「毎日鎮痛剤を打つことぐらしかしてやれなかった」とイルムケッシュさんは静かに話し始めた。
「夫の死は核実験と深い関係があると思っています。昔はコルフォーズの牧草刈りの責任者として働いていました。 実験場の中に入って牧草を刈ったり、水たまりの水を飲んでいましたから」と悔しそうに話してくれた。 年金を薬代に全部充てていたがそれでも足りなかった。 「肺ガンになるまではとても健康で、病気したことがなかったし、タバコも吸わなかった。 肺ガンになったのは核実験の灰やガスを吸ったからだ。 一人になってしまってとても寂しい」こぼれ落ちる涙をスカーフで拭いていた。
カイナール村では今年22人がガンでなくなった。 他の地域と比べガンで亡くなる人は2倍から3倍多いとアキンバイ先生は言っていた。
アルアさんと3歳になった娘のアイマンちゃん
午後、アキンバイさんが病院の仕事の打ち合わせをした後、 アキンバイさんの家でアリアさんが作ってくれたペルメニで昼食を取り、 アキンバイさんがセミパラチンスクに送ってくれることになった。 選挙のことや病院関係の仕事がセミパラチンスクであるらしい。
昨日までの寒さは和らぎ、晴れ間も広がる秋日よりの午後を奥さんのアリアさんに見送られてカイナールを後にした。
急展開
(10/1受信)
西カザフスタン州ウラリスク滞在3日目、ようやく外国人登録ができた。 カザフスタン共和国は5日以上滞在する場合は、その州の外国人登録をしなければならない。 アルマータでもやったのだが、西カザフスタン州でもやらなければならず、 ウラリスクの町外れにある内務省の外国人登録事務所を捜して、 一日がかりで登録を済ませた。もし、登録しなければ不法滞在で警察に捕まってしまう。
取材の方は州副知事に協力を申し入れると核被害救済の当地の団体「ナリン」を紹介してくれ、 責任者に会うようにセッティングをしてくれた。 しかし、当事者のナリンの責任者であるビシケノフ氏がなぜか、会うことを嫌がっている様子。 彼らがこれまで被害状況の把握や、汚染状況などのデータを持っていて、 被害者との連絡ルートを持っていたので、 彼らに会って被害者の家族への連絡や紹介をしてもらう事以外、取材の糸口がなかったのだ。 彼らが私との面会を拒んでいて、暗礁に乗り上げていた。
そこで思い切って現地新聞社の「ウラリスク20」という新聞社を訪ねたところ、快く協力を約束。 そればかりか「記者を現地に同行させて、いろいろ御世話をしてあげよう」と言うことになった。
事態は急展開で、うまく行くようだが、これらはすべて水物。 取材が終わってみなければ成功したと言えない。これはいつものことだ。糠喜びはいけない。
と言うわけで、10月3日からウラリスクから南西、ロシアとの国境地帯の村に行くことにした。 カプスチンヤール実験場とアズギール核実験場の近くの村である。 車で行くには悪路を10時間以上かかるので、小さな飛行機に乗って行くことにした。 その間は、もちろん電話もメールも通じない。
汚染された国境の村 ── 西カザフスタン州ブケイオルダ地区
ウラリスクからサイヒンに向かう飛行機の中でカザフ軍の特殊輸送部隊の軍人と一緒になった。 郵便物とお金を運んでいると言った。お金は兵士の給料らしい。 18人乗りのAN-2(アンドゥバ)という単発エンジンの複葉機内で。
10月3日
ウラリスクから空路で南西に向かった。 途中2つの小さな村に寄って郵便や貨物を降ろし、3時間半かかってサイシンという村に着いた。 この村はロシア国境に面した村でブケオルダ地区(ロシア語:ブケオルディンスキー)の中心地で庁舎のある村だ。
空港は村のはずれの草原に、コンテナの屋根の上に小さなアンテナの着いた事務所あるだけ。 アスファルトで舗装された滑走路があるわけではなく、着陸地点を示す小さな白い布製の標識が草原に置かれているだけだ。 それも風向きによっていつでも変えられる。 飛行機を降りると、地区の実質的な広報担当のバウルジャン・ビセノフ(40)が迎えに来てくれていた。
小人症と思われるアースィベック・イスカリユフくん(14)。 カプスチンヤール実験場の中に住んでいる。 両親は実験場の中のソ連軍に実験場内で放牧した牛や羊の肉や乳製品を売っていた。 村の学校は遠いので障害を持っている、アースィクくんを学校に通わすことが出来なかった。読み書きができない。
昼食後、地区庁舎で地区長と面会。今回の取材目的を告げると歓迎してくれた。 この地域の歴史は古く、民族の誇りとしていること。 しかし、ソ連時代の1950年代からこの地域に軍事演習場が作られ、 広大な地域が演習場とされたために住民は強制移住させられた。 行われた核実験やミサイルで放射能や液体燃料で環境が汚染され、
夕方、オルダ村に月が出た。
住民に沢山の病気や奇形児が生まれていることを静かに語ってくれた。 地区長は、ぜひこの被害を知って欲しいといって、地区の保健担当、福祉担当者を取材につけてくれた。