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カシミール国境・チャコティー(chakothi)村(10月)



シャー・アリムディンさんと子どもたち。
(2006年10月25日チャコティー村)

ラマダンが明けるとイスラムの新年を祝って洋服を新調知る。着飾った女の子に出会った。
(2006年10月25日チャコティー村)

ラマダンが明けると子どもたちはお年玉をもらって喜んでいた。
(2006年10月25日チャコティー村)
 昨年、行き先も告げられず、米軍の救援物資を運ぶヘリに乗って到着した村がチャコティーだった。インドカシミールとの国境の村だと知ったのはこの村に到着した翌日だった。 村はほぼ全壊し、多くの被災者が救援を待っていた。インド側に通じる道路は国境手前で完全に崩壊し、数十メートルの谷底まで、崩れ落ちていた。地震発生から2週間近く経っていたのに、私がいるときに山から救助された負傷者が運び込まれてきた事もあった。 国境を警備していた兵士もたくさん死亡したが、その実数は発表されなかった。 チャコティー周辺は急峻な山岳地帯。
急斜面にへばりつくようにして集落が点在していた。そのほとんどが崩壊し、山での暮らしを捨て、チャコティーの中心部でテント暮らしを強いられていた。 パキスタン軍の駐屯地脇でテント暮らしをしているシャー・アリムディン(50)さんは8キロほど山奥に入ったダッカム村からやってきた。村の住宅は80%が倒壊した。12家族がここにテントを張って暮らしている。「家もつぶれ、家財道具は一切失った。全てを援助物資に頼っていたが、今年の冬はその援助も届くか心配だ。今でさえ、食料、衣類、医薬品が不足している。我々の力ではどうにもならない。この冬は町に出て働き口を見つけなければ暮らしてゆけない」一気にまくし立てた。 村に駐屯しているパキスタン軍は昨年、自由に取材させてくれたのに、今回は軍の駐屯地前のインドに通じる道路はしっかりしたゲートが設けられ、許可無く通過することが出来なかった。ここは昨年から印パの住民の交流が出来るようになり平和友好バスが印パを週2回往復するようになった。しかし、シャー・アリムディンさんの住んでいたダッカ村は2年前にインド軍の砲撃で、22人の村人が亡くなった。「村にはもう戻りたくない」とシャーさんは言った。いつ崩れるかしれない平和と緊張の交錯する国境の村は、進まない復興支援に住民たちの不満が募っていた。

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