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カシミール国境の村 チャコティー(Chakothi)


ヘリから


イスラムバードの空軍基地から救援物資を積み込む米海軍ブラックホークヘリ(10月25日)

山体崩壊をしている山(10月25日)

救援


米兵は全く無表情で子どもたちにビスケットを配っていた(10月25日)

ヘリが着陸する混乱に紛れて支援物資の毛布を奪って行った少年(10月25日)

母親が死に、父親はケガをして歩けないため子どもたちがパキスタン軍から食料をもらっていた(10月25日)
 10月25日、カシミール奥地に入った。ラワルピンディーの空軍基地から救援物資を運ぶ米軍ヘリに乗せてくれると言う。ただし行き先はその時になってみなければわからない、村に降りことは出来ない。という条件で乗せてもらった。到着した村で救援物資を降ろしている間に、ここに留まっても良いが次の便はいつ来るかわからないと言う条件でヘリを降りてしまった。無情なヘリはすさまじい埃を巻き上げながらイスラマバード方面に飛び去っていった。
 降りたところはチャコティー(Chakothi)村。偶然にもこの村はパキスタン側カシミールとインド側カシミールの境界の村だった。ヘリが着陸した場所はパキスタン軍の駐屯地。パキスタン軍の救援部隊が食料、寝る場所を提供してくれた。
 この村もほぼ全壊。負傷者はほとんどイスラマバードやムザファラバードに運ばれていたが、時々遠くの村からヘリで搬送するために負傷者が運ばれてくる。孤立した山奥の村に入った軍が、応急処置して、置いていった患者たちだ。すでに20日近く放置され衰弱しきっていた。モハンメッド・ヤシン(32)さんは畑仕事中に地震に遭い、崖崩れで落ちてきた岩が左足に当たり、動けなくなってしまいそのまま、3日後に村人に発見され救助された。弟の妻と義理の兄が死んだ。担架代わりの簡易ベッドに横たわっているモハンメドさんの側には心配そうに付き添っていている家族の姿があった。妻は負傷した夫の手を握りしめてあげることしかできなかった。

 夕食時、イブラヒム軍曹が国境のバスターミナルに行ったかと聞くので、まだだと言うと、「明日案内しよう」と言ってくれた。なぜ外国人の私にわざわざ紛争の種になっている国境を見せようとするのか?
 翌朝、行ってみるとそこは単なるバスターミナル。インド側から来たバスはここで乗り換えパキスタン国内にはいって行くのだ。実際の国境はここから1キロ先にあるのだが、バスターミナルから先は道が崩壊し、崖崩れに会う危険があるのでこれ以上先に行ってはいけないと言われた。軍事的に微妙なところなのでこれ以上無理押ししなかった。

 帰りのヘリが来るまで撮影を続けたが、米軍ヘリは案の定迎えにこなかった。代わりに来たヘリは国際赤十字のスタッフが何のために来たのかよくわからないが、彼らを迎えに来たヘリに便乗させてもらうことにした。なんと滅多に見られない、トルクメニスタン赤十字のヘリだった。ヘリの窓からは夕日に染まる山々が見えた。無惨にも鋭い刃物で削ぎ落とされたように、山肌が削られていた。点在する家々はつぶれ、粗末なテントが張られ、夕餉の支度の煙がゆったりと立ち上っていた。

村の風景


インドカシミールの国境(10月25日)

チャコティ村のメインストリート(10月25日)

チャコリの小学校校舎の崩れた教室の隙間から机や教科書が見えた(10月25日)

被災者


救援を待つ被災者(10月25日)

チャコティでただ一つ開いていたレストラン(10月25日)

救援を待つ被災者(10月25日)

登山用テントを手に入れて暮らす被災者(10月25日)

負傷者


ヘリに乗り込む負傷者(10月25日)

山の村から運ばれてきた負傷者(10月25日)

負傷した子ども(10月25日)

頭にケガをした少女を手当するパキスタン軍軍医(10月25日)

手当を待つ負傷者(10月25日)

ヘリで搬送を待つ負傷者(10月25日)

負傷者とその家族(10月25日)

ムザファラバードからラワルピンディーの病院にスイス赤十字のヘリで運ばれる負傷者(10月26日)

ムザファラバードからラワルピンディーの病院にスイス赤十字のヘリで運ばれる負傷者(10月26日)

ムザファラバードからラワルピンディーの病院にスイス赤十字のヘリで運ばれる負傷者(10月26日)

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