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ヒマラヤに連なる村 #2 ハングライ(Hangrai)村


子ども


救援ヘリポートで物資の配布を待つ子ども(10月19日)

悲惨な状況にも関わらず、子どもたちは元気に遊んでいた(10月19日)

全てを失った子どもの心の傷は計り知れない(10月19日)

鶏を頭に乗せて山の村から降りてきた避難民の子ども(10月19日)

ヘリが運んでくる救援物資を待つ親子(10月20日)

ヘリが運んでくる救援物資を待つ子どもたち(10月20日)

日没直前、アザーンを唱えるマトルーブ(12才)くん。これから楽しい夕食が始まる。(10月20日)

母親よりも姉の方が弟の面倒をよく見ていた。(10月21日)

母親を失ったザイードくん(13歳) (10月21日)

 私は10月22日バラコットからさらに山奥のハングライ村(Hangrai)を目指した。途中までは軍のジープに乗せてもらって進むことが出来たが、村の手前数キロのところで崖崩れのため、徒歩でしか行けなかった。道は何カ所も崩れ、一歩間違えば谷底に転落しそうな急斜面を進むと、ロバにわずかな家財道具をのせ、牛や山羊を連れて山から下りてくる家族に何人も出会った。みなバラコットの町を目指していた。彼らの顔は埃まみれで、カサカサだった。到着したハングライ村は標高1800メートルから2000メートルの高地に12前後の集落が点在し、2千人が住んでいた。村は全ての家が全壊していた。倒壊した家屋の向こうに遠くヒマラヤの山々が白い雪をかぶって見渡せた。
 すでに、重傷を負ったけが人はヘリで病院に運ばれた後だった。国際赤十字社の医療チームが崩壊した学校の脇にテントを張って被災者を診ていた。
 壊れた家の下敷きや土砂崩れ、落石などによって84人が死亡した。 学校では164人の子どものうち10人が死亡した。地震は授業が始まる直前に起こったのだ。
 どの家庭も家族を亡くし、住処を失っているにもかかわらず、初めてきた外国人ジャーナリストの私に親切に、そして暖かくもてなしてくれた。
 私は小学校の先生をしているムハンマッド・ラフィーク(53)さんの家族のテントに泊めてもらった。ムハンマドさんは母と甥を亡くし、水牛4頭、牛9頭を失った。「みな家の下に埋まってしまった、今年の冬は村に住めない、カラチの兄弟の所で世話になる」と村を出る準備をしていた。

 午後6時、日没とともに断食が終わる。甥のマトルーブくんはお父さんの代わりにアザーンを唱えていた(唱える人のことをムアッヅィンという)。漆黒の迫る谷あいの村にマトルーブくんの野太い声がしみ込んでいった。あちこちのテントでイフタール(ラマダンが終わった後に食べる軽食)が始まり、チャイとカレー味の天ぷらの香りが漂ってきた。ランプの光に照らされた人の顔は薄汚れているが、生き残った家族に囲まれ、みな心が満たされているようだった。ただ、マトルーブくんのお父さんとお母さんは長男を失った悲しみから時折、二人寄り添い悲しみに沈んでいた。
 私もマトルーブ君や親戚の人と一緒のテントに潜り込み夜遅くまで、話し込んでしまった。北斗七星が日本より下に見えた。東京では見られない星空から星が降るようだった。
 山奥からオオカミの遠吠えがすると驚いたロバが情けない叫び声をあげ、静かな夜をかき乱していた。翌日、4時に起き出した人々は陽の昇る前に食事を済ませた。ミルクと砂糖がたっぷりはいったチャイを飲み、再び寝袋に潜って陽が昇るまで寝た。
 早朝、村の中を回るとテントのない人が壊れた家の残ったトタン屋根の隙間に潜って布団をかぶり寒さに震えていた。近くで子どもたちが裸足で走り回っていた。
 谷間の村に陽が当たるのは8時過ぎ。壊れた家の中から使えそうな家財道具を掘り出していた。壊れた時計が地震発生時刻の8時過ぎを指したまま止まっていた。
 谷から引いた冷たい水で顔を洗った後、マトルーブくんのいとこのアブダルくんが隣の村まで案内をしてくれた。隣村のタタール村までは山道を歩いて一時間半。崩れた崖道を注意深く進み、標高1870メートルの尾根に出た。そこから北の方角に白い雪をかぶった山々が見えた。ヒマラヤの始まりだ。
 開けた尾根筋に民家が点在するタタール村は人口100人。全ての家が崩壊していた。死者5人、6人が大けがをして、イスラマバードに運ばれた。
 ここでも、アバールさん一家がもてなしてくれ、ラマダンにも関わらず、チャイをごちそうしてくれた。息子のマジッド(28)さんは冬に備えて草刈りをしていた時、地震にあい、崖崩れに巻き込まれ亡くなった。母親のサディークさんは息子の墓の前で泣き崩れた。

 山奥の村は日毎、気温が下がり、やがて雪の季節を迎える。会う人ごとに「テント、食料、衣類すべてが欲しい、もうここには住めない」と言っていた。もうすぐ村から人の姿が消えるだろう。

暮らし


救援ヘリポートで物資の配布を待つ村人(10月22日)

テントが無いため壊れた家の屋根の下に潜り込んで夜露をしのいでいた(10月21日)

救援ヘリポートで物資の配布を待つ村人(10月21日)

収穫されなかったカボチャ(10月21日)

子牛の解体作業を子どもたちが見守っていた。小さいときから命を食べることの意味を体験している(10月21日)

被災者(10月21日)

父親の頭を剃ってあげる息子。父親と子どものつながりはとても強い(10月21日)

急斜面に切り開いた段々畑(10月19日)

道路に子どもの落書きあった。手首だけの絵を書いた子どもはなにを見たのだろうか?(10月20日)

夕食(10月20日)

祈り(10月20日)

夕食前の祈り。ムハンマッド・ラフィークさんのテント(10月21日)

マトルーブくんのお父さんが息子の墓にお参りに来た(10月21日)

早朝、被災者の家族が「チャイを入れたから飲んで行け」と言ってくれた(10月21日)

早朝、私が訪ねると、布団の中から起き出してきた(10月21日)

毎日の牛の乳搾りは子どもの仕事だ(10月21日)

車の走る道路がないタタール村は徒歩でしか行くことが出来ない。負傷者はヘリで運ばれたが、残った村人は住む家もなく、テント暮らしを余儀なくされていた。やがて雪の季節を迎えるので、町に出ると言っていた(10月21日)

夕方、マトルーブくんはお父さんとコーランを読んでいた(10月22日)

倒壊した家屋(10月22日)

地震発生後気を取り直した村人が放置していたトウモロコシも収穫の時期を迎えた。だいぶ餌のない山羊や牛に食べられてしまった(10月22日)

トウモロコシの収穫(10月22日)

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