私は地震発生から10日後の10月18日のバラコットに入った。ここは首都イスラマバードの北100キロ、震源地から10キロしか離れていない、人口20万人の町だ。町は風光明媚なリゾート地として観光客でにぎわっている所だった。ホテル、学校、民家全ての建物がペシャンコにつぶれていた。 救援物資を満載したトラックが町に入って来ると、待ちかまえていた人々が群がり、奪い合いになった。力の強い者、声の大きいもが何張りものテントを奪ってゆく。力のない弱い者は片隅に追いやれ、じっとその光景を見守っていた。町の真ん中を流れるクナール川(Kunhar liver)の河原には色とりどりの救援用支援物資が置かれテント村が出来ていた。夏用の薄い衣類は捨てられ、踏みつけられていた。 病院に行けないケガ人は応急処置をしただけで、その後の処置もされず、放置されていた。敬虔なイスラム教徒はラマダン(断食月)のため昼間絶食し、体力が衰えている。傷口から細菌が入っても免疫力が落ちた身体はすぐ感染し、化膿してしまう。そこに蠅が集っていた。 町のいたる所に被災者テントが張られ、住処を失った被災者が生活を始めていた。当初はテントもなく10度以下に下がる夜明け前をたき火で暖をとりながらじっと耐えていた。彼らは周辺の山間部から村を捨ててきた人々だ。 ※バラコットの町の被災前と後の衛星写真が見られます。 http://hitachisoft.jp/News/News350.html |
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