レバノン レポート 目次へ |
村の人口は12,000人。タバコ、小麦、果樹などを生産する静かな農村だった。 アイタ・シャーブは7月12日イスラエル兵をヒズボラが拘束し、戦争の発端となった。その日にイスラエルは村に進入しヒズボラとの激しい戦闘が繰り返された。 私が村に入ったのは停戦が始まって2週間後だった。村の中心部はほぼ壊滅状態だった。イスラエルはヒズボラへの攻撃を言っていたが砲弾が落ちたところは市民が住む住宅や学校や診療所、モスクだった。 「イスラエルのレバノン南部への攻撃は大通りが空爆され、民家が一軒一軒精密誘導弾で破壊され、スーパーマーケットや食料品店、ガソリンスタンド、その他の生活必需品の供給施設が重点的に破壊されたと」アムネスティ・インターナショナルは指摘した。アイタ・シャーブも同様だった。 モハンマッド・アリ・カーシムくん(10)の家はイスラエル軍の陣地からわずか数百メートルの谷を挟んだ東側の丘の上にある。 その日の朝、モハンマッド君くんは大きな砲撃音を聞いて両親と2階のベランダに出た。イスラエル陣地から離れた10人くらいのイスラエル兵が村に向かって谷を降りてくるところをヒズボラが攻撃したのだった。イスラエル兵2人はヒズボラに捕まり、連れ去られた。 その後、イスラエルの報復攻撃が始まった。昼過ぎ村民は隣の町やスールの親戚をたよって避難した。村に入ってきたイスラエル軍はアリさんの家にも居座り戦闘を続けた。崩れ落ちた家の中にはイスラエル兵の残したタバコやチョコレートなどとともにロケット砲の筒もたくさん捨てられていた。 スックナ(12)といとこのマルワ(12)、ハッサン(10)の3人はアイダ・シャーブで最初の不発弾犠牲者となった。 避難先から戻った翌日の8月17日夕方、祖父の家でクラスター爆弾とは知らずマルワが踏んでしまった。その瞬間、大音響とともに爆発した。3人は大怪我をした。もっとも酷い怪我をしたハッサンは6時間の緊急手術を受けICU室に2日間いた。飛び散った破片は肝臓や胃に達し、体中に破片が突き刺さっていた。 3人は、いまだ爆発の恐怖で祖父の家に行く事ができない。 ハッサンのお父さんは葉タバコを作っている農家だ。クラスター爆弾が転がっているので畑に行けず葉タバコが枯れてしまうと悲しそうな声で言った。 今回の戦争でクラスター爆弾はレバノン全土に120万発が使われたとイスラエル軍が発表した。国連不発弾処理チームは「不発弾はおよそ50万発以上と推定」している。同チームによればレバノン南部でクラスター爆弾の不発弾で8月14日から2週間に13人が死亡し59人が怪我をした。そのほか通常砲弾の不発弾があちこちに転がっている。 9月初旬、国境近くの町ベント・ジュベイルで国連軍の不発弾処理チームに会った。町にはいると次々と片付け始めたが、その場で処理できないものもある。私が見つけた場所を知らせると、場所だけ確認し、テープで囲いを作っただけだった。なぜ処理しないのだと聞くと「たくさん転がっている。お手上げだ」と中国軍の司令官は嘆いていた。 ムサ・サイード・ナスーラ(75)は家畜の世話をするため避難先の隣町ルメイシから毎日徒歩でイスラエル軍の占領する村に通った。「ヒズボラが復興資金に8千ドルくれたが、それだけでは元通りにならない。早く家を直さないと冬をどう過ごせばいいんだ」と悲嘆にくれていた。住民の誰一人として町を占領し、家を破壊したイスラエル軍と戦っているヒズボラを非難することはなかった。イスラエルの領土侵犯に無力のレバノン国軍よりも、ヒズボラを頼ることは彼らにとって当然のことなのだろう。たとえ子どもたちが犠牲になり仕事ができなくなっても。 村を監視していたイスラエル軍はいつでも戦闘再開の構えだ。レバノン領内に居座るイスラエル軍。夕方、丘の稜線から村を監視していた戦車がイスラエル領内に帰って行く。イスラエル軍戦車のエンジン音が谷を響き、夕陽に赤く染まった西空に排気ガスがシルエットになって映るとき、村はひとときの平和を取り戻し静かに暮れていった。 |
(9月3日) |
モハンマドくん(前右)は家族とともにイスラエル兵が拘束された、その一部始終をベランダから見ていた。背後の丘の中腹でヒズボラが白いワンボックスカーに乗せて、どこかに連れ去っていった。 |
(9月3日) (9月5日) (9月5日) (9月3日) |
(8月31日) (9月5日) |
(9月5日) イスラエルの攻撃で村はほぼ全壊し、無傷で残った家は少ない。 |
(9月5日) |
村にある5つの学校もほぼ全壊した。診療所も破壊された。 | (9月5日) |
(9月6日) |
トマト畑に突き刺さった不発弾 |
(9月5日) |
(9月5日) |
村の子どもたちが不発弾の転がっているところに案内してくれた。 |
(9月1日) |
不発弾処理をしていた国連軍。中国軍の司令官は不発弾が多すぎて、お手上げだ、と言っていた。 |
(8月30日) |
(9月30日) |
(9月1日) 村で最初のクラスター爆弾の犠牲者となった3人の子どものひとり、フセイン・ハッサン(10) |
(8月31日) イスラエル兵が居座った家の中にはヘブライ語のタバコやクッキーの箱が散らかっていた。 |
(8月31日) 村に戻った人々は遅れた農作業に励んでいた。葉たばこの感想を手伝う子どもたち |
(9月5日) 乾燥した葉煙草を収穫する老人と孫 |
(8月31日) 避難している間に干からびて黒く変色してしまったタバコが放置されていた。 |
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