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アフガニスタン空爆! パキスタンで取材 #2

Pakistan #2

#1 #2 #3 #4

10/17   10/19   10/20    10/26
■2001/10/17  アフガニスタン大使館前  Islamabad
イスラマバードのアフガニスタン大使館前  10月17日アフガニスタン大使館がビザの受け付けているという話を聞き、ビザ申請に行った。
 ビザ申請書に氏名、パスポート番号、職業などを書き込み顔写真を張り付け、 出版社からの手紙を添えて、提出したが、いつビザをくれるのか全くわからない。申請の受取証もくれない。 こちらから、毎日連絡して、催促しなければならない。 友人のジャーナリストは「申請書が事務所の中にこんなに高く積まれているらしいよ」と言った。
 アフガニスタン大使館前にはたくさんの外国ジャーナリストがたむろし、ビザ申請をしていた。 恒例になっている大使の記者会見があるらしいという噂で待っていたが、何もなかった。 噂では、ビザ申請を出した、ジャーナリストの数は400とも600とも言われている。 だが、いつ入国させてくれるのか、誰にもわからない。

■2001/10/19  from Islamabad
当地のイスラム系新聞が伝えたところによると アフガニスタン カブールの近くで北部同盟の ロシア兵3人が戦死、36人のアメリカ兵を捕虜にし、 多くのアメリカ兵を包囲していると伝えた。

■2001/10/20  from Peshawar(記事改訂)
ジャン・ビビちゃん(3才)顔面とお腹を負傷している。どこから来たか不明
ジャン・ビビちゃん(3才)顔面とお腹を負傷している。
どこから来たか不明


Rahamat Bibi ちゃんと Satana Gulさん
↑ Rahamat Bibi ちゃんと Satana Gulさん ↓
Rahamat Bibi ちゃんと Satana Gulさん
 アフガニスタンから来た、米軍の爆撃の犠牲者の写真が撮りたいので病院に連れていって欲しいと頼んだらすぐ了解してくれた。
タクシーで30分ほどの郊外にある、州立ハヤタバル病院(Hayatabal Medical Conplex)についた。
 ここには、爆撃が始まった10月8日からけが人が運び込まれている。 これまで12人のけが人が運び込まれ、2人が病院で死亡した。 けが人はJalalabad,Kable,などから来ている。
 スタナ・グルさん(Stana Gul・25才)と同じベッドに寝ていたラハマット・ビビ(Rahamat Bibi・5歳)ちゃんは、 200人が殺さたジャララバード近郊(Jalalabad)のカラマ村(Karama)から来た。 2人は、10月8日最初の空撃で負傷した。Rahamat Bibiちゃんは爆撃の夜、両親を亡くし、 身寄りを失ったため近所に住んでいるSatana Gulさんと一緒のベッドにいる。 しかし、ラハマッドちゃんは両親が亡くなったことを知らされていない。(写真) Satana Gulさんは腕を負傷。Rahamat Bibiちゃんは足を負傷している。
 10月22日現在、「この病院には8人の負傷者が入院している」とアドゥルラヒーム院長は言っていた。

■2001/10/26  from shamshatoo
難民キャンプの子どもたち
難民キャンプの子どもたち

アフガニスタンにいるとき地雷で左足を失ったフーリグルさんは義足を使っていた
アフガニスタンにいるとき地雷で
左足を失ったフーリグルさんは、義足を使っていた。


ナンを焼く順番を待つ少女
↑ ナンを焼く順番を待つ少女 ↓
ナンを焼く順番を待つ少女
焼いたナンを家に持ち帰る
焼いたナンを家に持ち帰る
 ペシャワールから車で1時間ほどで南東に走ると、荒涼とした風景が広がる。 ユーカリがまばらに植林され、地表には石ころがごろごろ転がり、雨期に削られた粘土質の谷が起伏を作る。 ガイドのハイフ・グルさんが指さした方向に古代遺跡でも見るような土で作った家並みが見えてきた。 ここが2年前に開設された新シャムシャトゥ難民キャンプだ。現在11万人以上のアフガニスタン難民が生活している。
 ここではNGOの(SNI)が飲料水、住宅建設、床屋、食糧配給、ナンを焼く窯などの救援に当たっている。 NGOスタッフの話を聞いているとナンを焼く香ばしい香りが漂ってきた。休憩所の隣の釜でナンを焼いていたのだ。 練った小麦が入ったアルミのたらいを持って子どもたちが焼いてもらう順番を待っていた。 釜の中では薪が赤かかと燃え次々と香ばしいナンが焼き上がっていた。これが彼らの命をつなぐ重要な食料なのだ。
 このキャンプには米テロ事件以後、アフガニスタンから避難してきた難民が300人以上いる。
 バウデルさんは元警察官。カブールにいたときは月給は1万ルピーほどだった。米軍の攻撃が始まる前に危険を避けて、 両親や一族を連れて20日前にカブールからパキスタンに避難してきた。着の身着のままで逃げてきた。 彼らが持ってきた物で家財道具と呼べる物はない。
 左足を地雷で失った母親のフーリグルさんは3,000mを越す険しい国境の道を歩けないため、馬にのせて超えたという。 馬のレンタル料は800ルピーだったという。 国境に着くとパキスタン国境警備の警察にお金を渡して入国させてもらった。お金のない人は2昼夜かかって山越えをした人もいる。
 「アメリカはカブールに誰が住んでいるのか知らなのか」と大きな声で言った。10月10日の爆撃でカブールに残っていた弟(12歳)と妹(14歳)が亡くなったのだという。 「国連の援助はテントとビニールシートだけだ。毛布や衣類、食料、医薬品など何もない。とてもひどい生活だ。さらに大人たちにとってここで何もすることがないのがとても辛いことだ。 子どもたちには学校が、病人には診療所が必要だ、だが、ここには何もない」と隣に座っていた、オーハンさんが静かに言った。

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