コソボ レポート 目次へ

世紀末のコソボ・変わらぬ日常

2000年11月28日「週刊プレイボーイ」掲載

ミトロビッツァの町は、イバル川を挟んで
北側がセルビア人居住区南側が
アルバニア人居住区に分断されている。
国連平和維持軍が二つの民族の衝突が
起きないように分離させている。
フランス軍装甲車が橋を渡って、
セルビア人地域にはいる。
セルビアとアルバニア。2つの民族が入り交じるコソボ自治州の町・ミトロビッツァ。 紛争が絶えないこの町でも、住人は「民族」である前に「人間」だった。
 ユーゴスラビア大統領選の行方が気になり入国申請を出しても、 ジャーナリストビザは「情報省の許可がなければ出せない」ジャーナリストは入国させないと無視され続け、ようやく入国できたのは10月8日。 しかも、ツーリストとして入国した。すでににミロシェビッチは国民の大きな反対運動のうねりの中で、大統領職を退いた後だった。 ベオグラード国際空港の入国審査は簡単な質問だけでパス。 3日前に、友人のジャーナリストは入国拒否され、乗ってきた飛行機に強引に乗せられ、追い返されてしまったという話しが嘘みたいだった。 パリからのユーゴスラビア航空のスチュワーデスに大統領選の感想を聞くと「これからは経済制裁も解除されるしセルビアはいい国になりますよ」 と嬉しそうに語ってくれた。 ベオグラードの政変は平和的に幕を下ろしてしまった。
 ミロシェヴィッチの歴史的最後を見届けたいという一縷の望みは、ベオグラードに着いたとたん微塵もなく消え失せてしまった。 私と同じようにスクープを狙ってきたカメラマンたちは早くも帰り支度を始めていた。
 このままなにも仕事をせずに帰れない。昨年NATO空爆の一ヶ月後に行った、民族紛争の続くコソボはどうなっているのか。 政変をどう受け止めているのか?翌朝、私はベオグラードの長距離バス発着ターミナルからコソボスカ・ミトロビッツァ行のチケットを手にしていた。
*コソボスカ・ミトロビッツァと言う呼称
セルビアではミトロビッツァというなの町が他にもあるためコソボスカ・ミトロビッツァと区別して呼んでいる。 アルバニア人はただミトロビッツァと呼んでいる。 この町の呼び方でセルビア人かアルバニア人か解る。
私はどの民族にも属さないので、便宜上単にミトロビッツァと呼ばせてもらう。

北のセルビア側にはイバル川沿いにアルバニア人居住区があり、
南側のアルバニア人居住区から、
そこに行くにはイバル川の橋を渡るときには
フランス軍のボディーチェックを受けなければならない。

 ベオグラードから長距離バスで6時間。紅葉の始まった山岳地帯がコソボの入り口にあたる州境だ。国連平和維持軍(KFOR)のベルギー軍が検問をしていた。 バスの中に銃を持った兵士が乗り込み、パスポートをチェックした。 乗客が私にカメラを仕舞えと言う。 バスの中はセルビア人ばかり、KFORは彼らにとって侵略者なのだ。 だがアルバニア人とっては解放軍に見えるかも知れない。確かにコソボは本来ユーゴスラビアの一自治州、外国軍隊が駐留する国際的根拠はなにもない。 NATO軍の圧倒的な軍事力の前に制圧されたコソボは、民族的亀裂が深まっただけでなにも解決していなかった。
 国連平和維持軍が進駐後一年半、コソボの人口の圧倒的多数を占めるようになったアルバニア人はコソボの独立を主張している。
 コソボ北部の町ミトロビッツァは東西に流がれるイバル川を挟んで民族が分断されてしまった。 南側にアルバニア人、北側にセルビア人が住み分けられ二つを結ぶ橋はフランス軍が警備に当たり二つの民族が接しないようにしている。 現在人口は推定アルバニア人8万人、セルビア人1万6千人といわれている。
マルコとミラナは、晴れて夫婦となった。
大きなお腹を両手でさすりながら、
友人の祝福を受けていた。
二人には来月赤ちゃんが誕生する。
「出来ちゃった」結婚なのだ。
二人はミトロビッツァの町が大好きだ。
産まれてくる子供のためにも
平和が一日も早く戻ってくるよう
誰もが祈っていた。
 一見この町も二つの民族が対立する町という構図に見えるが、実際はそんな単純ではなかった。
 7時間のバスの長旅を終えてミトロビッツァの中心街でバスを降りた。 そこはセルビア人の町、イバル川の北側だ。カフェの店員がアルバニア人の友人のタクシードライバーを紹介するという。 南側の取材に欠かせない、アルバニア人のタクシードライバーだ。明日10時に南側の橋のたもとで会うことにした。 セルビアとアルバニアの対立という構図を描いていた私は、あっけなくそのイメージを壊されてしまった。
 翌日、約束通りタクシーは待っていてくれた。南側はバザールを中心ににぎやかな町が広がっている。 モスクの銀色に輝く塔からは祈りを呼びかけるアザーンの野太い声が町中に響き、 カフェでは老人たちがトルコスタイルのお茶を飲みながらおしゃべりに興じていた。 コーヒーを飲みながらおしゃべりをしていたセルビア側のカフェとにている風景だ。 しかし、老人たちは頭にイスラムの白い帽子をかぶり、顎ひげをたくわている。 聞こえてくる音楽もイスラム音楽だ。全く文化が違う。 昔は、セルビア人もアルバニア人も文化の違いを認めあい仲良く住み分けていたのかもしれない。
 昨年、6月セルビア人の住んでいた、イバル川の南側の集落は避難先から帰ってきたアルバニア人たちによって、 集落全体が放火と略奪で完全に破壊され、あちこちから火の手が上がっていた。 その同じ場所にアルバニア人が一族総出で力を合わせ新しい家を建てていた。元々かららの土地なのか、誰の土地だったのか今はわからない。
冬がくる前に完成させたいと張り切っているアルバニア人の家族。
隣の敷地には焼けこげた、家が無惨な姿をさらけ出していた。
「冬が来ないうちに、早く完成させたい」と主人のイサックさんは言った。
ミトロビッツァからプリシチィナに行く途中、NATO軍の空爆で破壊された橋の掛け替え工事が始まっていた。
その手前のバビンモスト村では、来春収穫する麦の種まきをする農民がいた。セルビア人のマルコ(16)モミル(19)父親のジボラド(47)の3人だ。 なんとタクシードライバーの友人だという。この村はセルビア人とアルバニア人が混住している。 紛争に巻き込まれなかった村で両民族が仲良く暮らしている。 しかし、幹線沿いの畑の脇には焼け落ちた家が残っていた。
 10月末、コソボ自治州の選挙が行われた。しかし、国連(UNMIK)主導のこの選挙をセルビア人はボイコットしてしまった。 この選挙がアルバニア人の支配を固定化するための選挙だったとすれば、再び二つの民族の対立はさらに深いものとなってしまう。

国連警察が交通取り締まりをやっていた。
信号を無視したバイクに注意していた。
(ミトロビッツァのアルバニア人居住区)
NATO軍に爆撃された橋。
バスが爆撃され多くの死傷者を出した。
ようやく復旧工事が始まった。
(ミトロビッツァ−プリシティナ

行方不明を捜す家族の集会(プリシティナ) アルバニア人居住区にあるセルビア正教の教会を
警備するポーランド軍と友達のアルバニア人少年

 このサイトの写真・文章の著作権は、森住卓に属します。無断での二次利用を禁じます。 
 Copyright morizumi takashi