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イラク レポート 2003/11〜12 #7


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住民虐殺とクラスター爆弾の村

米軍が回収してくれないので農民が危険を冒して不発弾を集めた。
米軍が回収してくれないので農民が危険を冒して不発弾を集めた。

アリ・フセイン・ムハンマッド君とお父さん
顔を撃たれて大手術をした、アリ・フセイン・ムハンマッド君とお父さん

グルジア村
グルジア村

ホウザイさんは牛を連れ戻すために庭にでたところを撃たれた。
ホウザイさんは牛を連れ戻すために庭にでたところを撃たれた。

グルジア村の子どもたち
グルジア村の子どもたち
畑にや畦道、草むらにクラスター爆弾の不発弾が転がっている。
畑にや畦道、草むらにクラスター爆弾の不発弾が転がっている。

トラクターで畑を耕しているときにトラクターがクラスター爆弾を踏んで爆発した。
トラクターで畑を耕しているときにトラクターがクラスター爆弾を踏んで爆発した。 トラクターは壊れ、ヤコブ・フセイン(20)足、顎など4カ所にケガをした。

アリ・フセイン・ムハンマッド君が銃撃された畦道
アリ・フセイン・ムハンマッド君が銃撃された畦道。この溝の中に倒れ込んでいた。
------クルジア村======= 
 「バリ、バリ、バリ、バリ、バババババババーン」アリ・フセイン・ムハンマッド(6)くんは 母親と一緒に畦道の用水路に倒れ込んだ。顔面に何か熱いものを感じた。しかし、何が起こったのかわからなかった。 手をつないでいた母親も腰を撃たれ動けなくなっていた。 彼の記憶ではついさっき、自宅から西に向かって叔父、叔母、母親、いとこ、など近所の親戚と一緒に、 総勢20人が一列になって畦道を逃げていたのだ。
 アリは暗闇の迫る用水路の中で次第に記憶も遠ざかっていった。気づくとあたりは真っ暗になっていた。 近くでうめき声が聞こえていた。ショックで何が起こったのかわからず、痛みを感じたか感じなかったのかさえ覚えていない。 翌日までその場でじっと隠れていた。 「米軍ヘリはヤシの木をかすめるように飛んできた。 米兵には女、子ども、年寄りだとすぐにわかったはずだ。なのに銃撃した。翌日明るくなるまで、誰も助けに行けなかった。 付近には米軍がいるので、近づくことが出来なかった。奴らは動くものは何でも撃ってきたから」とヤシの林に隠れて事件を見守っていた住民は怒りを露わにした。
 事件が起こったのは2003年4月3日の日没直後だった。7人が殺され、アリと一緒に7人が負傷した。
 同じ日、アリ君の家から300メートルほど離れた家にいたフォウジャ・フセイン(46)さんは 牛を連れ戻しに行こうとして庭先に出た。 米軍の戦車が200メートル離れた国道からフォウジャさんに向けて発砲した。 左腕と肩を撃たれ、腕に当たった弾は貫通してしまったフォウジャさんは気を失いその場に倒れ込んでしまった。 父親が翌日病院に運び込んでくれた。12日間入院したが 「誰も補償してくれない。アメリカは私の敵です」とアメリカを憎んでいた。
 アリ君の住むクルジア村はバグダッドから南40キロのイラク南部とバグダッドを結ぶ幹線道路の脇にある小さな村だ。 野菜や小麦畑が広がり酪農が盛んな村だ。  この村には米軍のバグダッド侵攻を阻止するため、イラク軍が前線を布いていた。 午後から米軍との激しい戦闘が始まった。村の東側の幹線道路から集落に向かって激しい銃撃が加えられた。 動くものは何でも撃たれた。牛が何頭も犠牲になった。 住民は粗な土煉瓦の家の中でじっと、戦闘が終わるのを待っていた。夕方ようやく、戦闘も収まり静かになった。 危険を感じた住民たちは、近くの親戚の家まで避難することにした。 女、子ども、年寄りばかり20人が一団となって避難することになった。悲劇はそれからまもなく起こったのだ。
 翌日まで身動きできなかった、アリ君は昼過ぎ叔父さんが助けに来てくれた。 18時間も怪我をしたまま放置されていた。ぐったりしたアリ君を抱きかかえた叔父さんが米軍に助けを求めた。 米軍によってイラク南部に次々移送され、ついに500キロも離れたクウェートの米軍の病院に運ばれ手術を受けた。  しかし、北上を続けた米軍からはその後何の連絡もなく、家族は米軍に連れ去られたと思っていた。 アリ君の無事を知らされたのは一ヶ月後の5月になってからだった。 バグダッドの国際赤十字からの連絡で、クウェートの病院に入院している事を知らされたのだ。  顔面の銃撃で鼻はそぎ取られ、股の皮膚を移植したという。結局左目は失明してしまった。
 この村に展開していたイラク軍に対して米軍は多連想ロケット砲で発射するクラスター爆弾を大量に使った。 いまだにクラスター爆弾の子爆弾が不発弾としてたくさん残っており、畑仕事中に爆発して犠牲者がでている。 不発弾の大量に残っている畑に連れていってもらった。ヤシの林もクラスター爆弾があたって所々葉がへし折れている。 案内してくれたヤシッルさん(19)はクラスター爆弾の危険を知らず拾い投げ、落ちたところで爆発し大けがをした。 今も、破片が体に残っている。
 畑の畦道の草むらの中に直径4,5センチの灰色の円筒形の金属製筒が見つかった。 先端には白いプラスティック製のリボンがついている。
 4月にバグダッドの住宅地で私が見たものとは一回り小さい。一度見つけると次々と見つかる。 畑の中には半分埋まってしまったり、プラスティック製のリボンだけ地表にでているもの、 土の中に埋まってしまっているものもある。
 米軍は戦争が終わってしばらくしてからこの村にやってきてクラスタ−爆弾の調査をした。 しかし、不発弾の落ちている畑をビニールテープで囲い意味不明な張り紙をして帰ってしまった。その後何もしてくれない。
 住民たちは危険を承知で畑や住宅地に落ちているクラスター爆弾の子爆弾を拾い集めた。 しかし、今も爆発による被害は続いている。たくさん落ちてる畑は耕作放棄せざるを得ないと嘆いていた。

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