曇りなき瞳はブッシュの「蛮行」と「ウソ」を暴く!
イラクの子供たち
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略奪は米軍が扇動したものだった!
5年間通った、バグダッドの街は変わり果てていた。 街のあちこちから黒煙が上がり略奪と放火で、次々とイラクの財産が失われていった。 空爆や市街戦で破壊された町は瓦礫になってしまった。そのうえでの破壊だから見ていられないくらい悲しかった。 政府官庁、博物館、図書館、銀行、病院、救急車、消防自動車、二階建てバスなどあらゆるものが略奪の対象になっていた。 「なぜだ」多くのイラク人は彼らの行動を眉をひそめた見ていた。 「なんて事するんだ、自分たちの財産じゃないか?」と多くの市民は思っていたが、 じっと彼らのやることを見ているだけで止めようとしなかった。 4月12日昼頃私の泊まっていたホテルから300メートルほど離れた国立博物館から煙が上がり始めた。 ホテルの屋上から衛星携帯電話で日本に連絡を入れている時だった。 南東の方角から黒煙が上がり始め、やがて窓から炎が出始めました。 しかし、私は現場に行く気になれなかった。 文化財まで焼いてしまうというイラク人の信じがたい行動に、「なぜだ、そんなにサダムが憎かったのか。 それなら他に行くところがあるだろう、宮殿やサダムの銅像を引き倒す方が先だろう」と心の中で叫んでいた。
病院は前回(戦争が始まって1週間)行ったアル・キンディー病院やサダム小児病院は略奪に遭い、 ほとんど機能停止という状況だ。 市民同士の銃撃戦で昼間でも危険な状態だった。 医師は安全に病院に通うことができず、医師の不足は病院の機能を停止させざるを得なかった。 サダム病院では、遺体安置室の冷凍庫が停電で使えないため、 亡くなった患者の遺体は裏庭に急ごしらえの穴が掘られ埋葬されていた。 占領支配した米軍は占領軍の義務として、市民の安全を確保義務があるのに、まったく安全確保のために動いていなかった。 医師たちは「今、最も必要なのは安全確保だ。患者や医師が安全に病院に来ることができない」 とどの病院に行っても医師たちは悲痛な声をあげていた。 しかし、私の宿泊していたホテルの近くのクリスチャン系の病院は米軍が警備に当たり、安全が確保されていた。 赤新月社系の病院は暴徒にやりたい放題やらせ、病院を破壊させていた。 米軍は政府官庁の略奪を放置しておきながら、石油省の建物はがっちりガードしていた。 《サードくんの家》 4月17日、旧サダムシティー(現在はアル・サドールに変更された)に住むサードくんの家を訪ねた。 戦争が始まって近く爆弾がたくさん落ちるようになり、4日目にバグダッドの50キロ北の村の親戚の家に避難した。 2日前に避難先から帰ってきたばかりだと言っていた。 鉄製の扉を開けて中にはいると、庭がゴミだらけで、気の葉やゴミが散らかっていた。 サードのお母さんと姉のメースンが庭の掃き掃除をしていた。 家の入り口には真新しい大きなバッテリーが置かれていた。 「これはどうしたの」とサードに訪ねると、隣にいた母親が「そんな質問するな」と怒っていた。 サードか兄のムハンメッドが略奪してきた物かも知れない。 1月に訪ねたとき兄のムハンメッドは、兵役中で北部のモースルの部隊に行っていると言っていたが、 ムハンメッドは家族と一緒にいた。 彼は戦争の始まる3月、休暇中で家に帰っていた。 ところが3月20日に戦争が始まり、北のモースルの部隊に戻ることができず、 そのまま家族とともに疎開してしまってのだ。 お父さんのジュブーリと弟のアホメッドは家を守るため、疎開しなかった。 「米軍に出ていってもらいたい、アメリカが作った政府を我々はいらない。 自由な選挙をやって国民が政府を作る。 しかし、米軍がいる間は公正な選挙は出来ない」とお父さんのジュブーリはいう。 近くで銃声の音がした。これは祝砲で行っているのだという。 お父さんのジュブーリが俺も持っていると言って、カラシニコフ銃を持ってきた。 弾倉を台所の棚から持ってきて、メースンのポケットに入っていた空砲を2発弾倉に詰めた。 子どもたちがいる庭に出て銃を空に向け発射した。真っ青な空に銃声がとどろき、隣の家の伝書鳩が驚いて一斉に飛び立った。 側で見ていたサードが「俺も撃ちたい」というと即座におまえはダメだ、と言って姉のメースンに渡した。 彼女は銃の訓練を14歳になったので受けていた。多くの市民が銃で武装している、このことが治安を一層悪くしている。 本来、治安確保のために占領軍はまず住民の武装解除しなければ、安全を確保できないのに、それをサボタージュしている。
4月21日バグダッドから南のバスラを目指した。 バスラはイギリス軍が占領している。湾岸戦争の時は猛烈に破壊された町だ。 バスラ教育病院は空爆されなかったが、アクラム・A・ハッサン院長の自宅がミサイル攻撃を受け10人の家族が亡くなった。 同じ病院で産婦人科医をしている娘も亡くなってしまった。 アクラム医院長はたった一人になってしまった。隣の家も7人が亡くなった。 バスラは水が極端に不足しているらしい。 バスラに到着した日の夕方、ドライバー^が道ばたのタバコやに寄ったところ、 近くから子どもたちが車に寄ってきて、窓から見えたミネラルウォータを見つけてくれという。 戦前もバスラの水事情はよくなかったが今は極端だ。安全な水を確保する事が大変なようだった。 子ども専用の墓の横に今度の戦争で亡くなった市民の墓が出来ていた。 ざっと数えて250はあった。いまも毎日掘っていると、墓堀人の老人は言っていた。 17歳の息子を失った男性が家族とともに墓の周りで泣いていた。 小さい少女は事情が良く解らず、母親の膝の上でぐずっていた。時々父親や母親が呻きに近い声を上げ泣き崩れた。 姉は一心不乱にコーランを暗唱していた。 イラク南部では激しい反米デモが起こりはじめていた。 バスラからの帰り、途中の町アマーラではイスラム指導者が町を治めていた。 イギリス軍は住民に自治を認め、彼らのことに介入していなかったが、 アメリカ軍は住民が認めているイスラム指導者による自治を認めず、彼らの拘束が伝えれている。 バグダッドは依然、停電が続き、電話も不通のままだった。 インターネットやメールが使えず、海外の情報はもちろん、イラクで何が起こっているのか身の回りのことしかわからなかった。 《帰国して解けた謎》 帰国後、イラクで目撃したことで不審に思っていた謎が次々と解けていった。 まず、略奪は米軍の先導によって始まった。と言う事実である。 スウェーデン人のカリード・バヨミは人間の盾としてバグダッドにとどまっていた。 彼は米軍の扇動で略奪が始まったその場に居合わせてしまった。 「4月8日、戦闘の止んだチグリス川西岸ハイファ大通りの自治体行政府の建物を警備していた二人の兵士を射殺し、 戦車によって大きな扉を破壊した。 一台の戦車からアラビア語の声が流れてきた。 米軍通訳がアラビア語で「近くに来るように住民に呼び掛け、 集まってきた住民に「行政府ビルの中にあるものを持ち出してもよい」と呼び掛けていた。 その直後、激しい略奪が始まった。そして、全市に波及していった」 これはスウェーデンの最大紙ダゲン・ニエターに載ったカリード・バヨミ氏のインタビューである。 http://www.dn.se/(スウェーデン語) さらに、バグダード刑務所を解放した米海兵隊は収監されていた刑事犯や窃盗犯に略奪や暴動をそそのかした。 《アメリカの意図ともくろみ》 占領軍が意図的にイラクの国内の無法状態を作り出している事がわかってきた。 これまでつき合ってきたイラク人たちは理性的であり、思慮深い人々であった。 そのイラク人たちがなぜ、自分たちの財産である公共施設を次々と壊していくのか、 本当に不審に思っていた事が上記の事で理解できるようになってきた。 この混乱状態を続けることより、イラク人には統治能力がないと言うことを内外に印象づける。 同時にイラク人の心の中に、自分たちの力ではイラクを治められないのではないかという、 あきらめの気分を蔓延させる効果があると考えている。 さらに戦争が終わってもまだ続く破壊はイラク人自身によって行われている。 その復興には莫大なお金が必要になりその再建にはアメリカの大手ゼネコンが当たる。と言うことになると思う。 こうして、中東の要石としてイラクはアメリカの戦略上重要な位置を占めることになってしまった。 イラクの民衆はいつまで苦難の道を歩まねばならないのだろうか? |
▼この記事を最初にTOPページに掲載した時に一緒に載せた写真です。▼ | |
米軍に拘束され連行されるフェダーインの残党。 (4月18日バグダッド市内) |
バグダッド南部ドーラの町に転がっていた クラスター爆弾の子爆弾。 不発弾、いつ爆発するかわからない。 |
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