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イラクレポート 2002〜2003 #1

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バグダッド到着


バグダッド時間 2002/9/20 20:27送信(日本時間 9/21 01:33受信)
 バグダッド到着の翌朝9月19日、情報省に行き、記者登録と取材のリクエストをした。 今日からバグダッド市内の取材許可が出た。バスラへは許可が必要で、申請をしてうまく行けば翌日行ける。 以前は非常に時間がかかった。
 プレスセンターは連日24時間稼動し、外国人ジャーナリストがあわただしく出入りしている。 情報省の職員はジャーナリストの対応におわれている。 バビロンフェスティバルと来月行われる大統領信任投票があるため世界中からバグダッドにジャーナリストが集まっているというが、 もっぱら彼らの関心はいつ戦争が始まるかと言うことであり、 日常のイラク市民の生活がどうなっているのかなど、あまり関心を示していない。
 プレスセンターのあるフロアーにはAP,AFFPなどの通信社がブースを持っている。共同通信のブースがあったので挨拶をしにたずねた。 カイロから3ヶ月に1回ぐらいの割合で来ていると言う、木庭さんにお会いした。 とても親切な人で、いつでも何か困ったことがあったら言ってきてくださいと言われた。
 午後になって何度も通ったバグダッド市内にあるマンスール小児病院をたずねた。前より建物がきれいなっている。 応対してくれたサード・メヘディ・ハッサーニ医師は「どうぞどこでも撮ってください」と、とても好意的に応対してくれた。
 彼の案内で白血病専門病棟に入院している子どもたちを訪ねた。現在この病棟には40人の子どもが入院している。 6個のベッドのある部屋には4人の子どもと付き添いの母親が一緒にいた。 ゼイナバッドちゃん(4)は母親のひざの上に乗って荒い息をしながら時々、苦しそうにあえいでいる。 額には汗がにじみ出ていた。彼女のか細い腕は、そっと触っただけで折れてしまいそうなほど細かった。 サード・メヘディ・ハッサーニ医師は 「肝臓ガンなんです。今のイラクでは手術もできない。あと半年生きられれば・・・」と言って言葉を濁してしまった。 ゼイナバトちゃんはバグダッドの200キロ南の町ディワニヤからやってきた。 ディワニヤは湾岸戦争当時、米軍の激しい空爆にさらされた町だ。 サード・メヘディ・ハサーニ医師は「劣化ウラン弾の影響でしょう」と言った。 しかし、母親のサヘーダ(30)さんは劣化ウラン弾の危険性について何も知らされていない。

 湾岸戦争で初めて使われた劣化ウラン弾は11年後の今もイラクの子どもたちを死の淵に追い込んでいる。 今またアメリカはイラクの大量破壊兵器査察を受け入れをめぐって激しいやり取りがおくなわれていたが、 先日、イラクは査察を受け入れると表明した。イラク攻撃の口実を失ったアメリカはそれすら拒否し、なんとしても攻撃したいらしい。 バグダッド市内のメインストリート、サドゥーンストリートで買い物をしていた市民は 「アメリカは、必ずやるだろう、でもそのときは彼らの侵略を必ず打ち破るよ」と自信たっぷりに答えていた。

 木曜日の夜はイラクではウイークエンドに当たる。イスラムの世界では金曜日が日曜日にあたるからだ。 バグダッドの中心街のホテルでは幾組もの結婚式が行われている。 新郎新婦を乗せた車を先頭に、トランペットやドラムでお祝いの音楽を流しながら親戚、友人たちが新郎新婦に祝福の言葉をかけている。 なんと陽気な人たちなのか。本当にこれからアメリカが攻撃してくるのかと、信じられなくなるほど平和な風景だ。 9月中旬日中は30度を越えるが夜になれば過ごしやすくなり、市民たちは遅くまでウイークエンドの夜を楽しんでいた。

バグダッド時間 9/21 21:05送信(日本時間 9/22 02:11受信)
 ヨルダンのアンマンから国境を越えてバクダッドまで1000キロ。 イラク側に入ると3車線の立派なハイウエーがどこまでも延びている。 午後3時過ぎ車外温度計は42度を超えていた。

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