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マーシャル諸島(ビキニ水爆実験) 目次
  1. ビキニ水爆実験 被曝者はいま
  2. 被曝2世のジョカネ・マタヨシさん
  3. 誕生日プレゼントは水爆実験だった
  4. プロジェクト4,1 ― 人体実験の疑惑
  5. 温暖化

3,誕生日プレゼントは水爆実験だった

3月1日生まれのロンゲラップ島民リジョン・エクニランさん

マーシャル諸島 レポート


毎日何種類もの薬を飲み続けなければならないのとテーブル一杯に薬の容器を見せてくれた
  "太平洋の首飾り"と呼ばれる美しい島々からなるマーシャル諸島共和国は29の環礁と5つの島が点在し6万人が住んでいる。
 アメリカはここで1946年から1958年までに67回原水爆実験を行った。その総破壊力はTNT火薬に換算して100メガトン以上と言われている。これは19年間にわたって毎日、広島に落とされた原爆と同じものが爆発したことになる。
 特に1954年3月1日の水爆・ブラボーショットは最大の破壊力だった。広島原爆の1千倍ものエネルギーを一瞬にして放出したブラボーはビキニ環礁の3つの島をこの地上から消滅させた。その跡には直径2000メートル、深さ80メートルの巨大なクレーターが今も真っ青な水をたたえている。
 ビキニの爆心地から東、160キロメートルには操業中の第五福竜丸がいた。その他1000隻近くの漁船が被曝した。そして、水爆マグロと呼ばれた汚染マグロは全国各地の遠洋漁業の港に水揚げされ、日本中をパニックに陥れた。そして、9月には第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが亡くなり、広島、長崎に次ぐ3番目の核兵器の犠牲者となった。この事件は日本国内の核兵器廃絶の運動の盛り上がる契機となった。
 実験が行われたビキニ環礁の東180キロに浮かぶロンゲラップ島には67人が当時暮らしていた。
 1947年3月3日生まれのリジョン・エクニランさんは7回目の誕生日である1954年3月3日の朝を迎えた。

毎年あの惨禍を忘れず核兵器をなくそうと開かれるビキニデーのよる女性だけの集会が開かれた。誕生日祝いもかねて仲間から花の冠がプレゼントされた。
 「西の空に大きな太陽のような、真っ白や赤や黄色や青やいろいろな色の光りが見えたの。ゴロゴロと大きな雷が鳴った。それからしばらくして爆風が島を襲ったわ。ヤシの木が倒れ、家が吹き飛ばされた。とても怖くて泣き出してしまった。昼過ぎには白い砂や細かい塵が降ってきて、島中に積もった。私たちはそれが放射能を含んだ死の灰だなんて知らなかったから、体にふりかけたり舐めたりした。やがて、ひりひりして皮膚がやけどのように水ぶくれになった。島中の人が吐き気、頭痛、気分が悪くなって動けなくなり、大騒ぎになったの」と当時のことを静かに話し始めた。アメリカの船が来て、クワジェレン環礁のクワジェレン基地に連れて行かれ衣類を脱がされシャワーを浴びせられ、血液検査などをしてくれたが、治療はしてくれなかったという。
 それから3年後の1957年アメリカは住民の要望に応えて帰島許可を出した。「島に帰ると住民がみんな病気になり、異常出産が増えました。モンスターベービーが次々と生まれたのよ。クラゲやブドウのような赤ん坊が生まれると、すぐに隠して埋めました。放射能が降ってくる前にはこんな事はなかったのよ」と女性たちの辛い過去を話してくれた。
 彼女自身も7回死産を繰り返したのだ。
 この帰島許可は島民の願いに応えたものだったが、許可を出したアメリカは別の思惑をもっていた。アメリカ原子力委員会(AEC)などはロンゲラップ島の残留放射能調査をたびたび行っていた。土壌や食糧となる植物、魚介類は高レベルの放射能で汚染され、島は人間が住めるほど安全ではなかった。そのことを一番よく知っていたのはアメリカだった。
 AEC生物医学局がおこなった帰島させるか否かの議論の中でベントレイ・グラス博士は「高いレベルの放射線を浴びた少数の者が再び高い放射線にさらされると言うことである。劣性遺伝子と呼ばれている者への影響を観察できる絶好の機会である」と言っていた。そして帰島の際に、81人とその後生まれた胎内被曝者4人の被曝住民にはグリーンのカードを。165人の非被曝住民(ブラボー実験の時に島にいなかった。すなわち被曝していない住民)にはピンクのカードが手渡された。(「マーシャル諸島核の世紀」豊崎博光 著)
 これはブラボー実験で被曝した住民と実験の時に島にいなかった住民の二つのグループが残留放射能で汚染されたロンゲラップ島で暮らすことによる影響を継続して調査していたことを示している。
 「我々はモルモットにされたのです。人間として扱ってもらえなかったのです」とリジョンさんの射すような眼差しは怒りに燃えていた。

ビキニデーの婦人集会で挨拶するリジョンさん
 2007年3月1日、マーシャル共和国の首都マジュロで核実験犠牲者追悼集会が開かれた。ここに参加していたリジョンさんは「今日が自分の61回目の誕生日です。アメリカが私にくれたビッグケーキはブラボーショットよ」「それから私の誕生日はマーシャル人にとってのろわしい日になってしまったわ」と皮肉を込めて言った。
 翌日、リジョンさんの家を訪ねた。病院から戻ってきたばかりで、汗ばんだほほをタオルでぬぐっていた。その顔には幾筋もの深いしわが刻まれていた。
 通された部屋のテーブルには血圧降下剤、鎮痛剤、胃腸薬、ホルモン剤、心臓発作の錠剤など8種類もの薬があった。「薬剤中毒になったエルビス・プレスビーのように毎日飲んでいる」とけだるそうに言った。  リジョンさんは「私たちのような被曝者を生み出さないように世界中の人に核被害の恐ろしさを伝えたい」と静かに語った。
 核実験の時に島にいたロンゲラップ島民は高齢化がすすみ、望郷の念をつのらせている。しかし、いまだふるさとの島は人が住む事を拒絶している。

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