ジョカネさんと初めてあったのは1997年7月クワジェレン環礁イバイ島だった。 ロンゲラップ住民が避難生活をしている同環礁北部のメジャト島で取材を終えて帰る途中だった。 メジャト島に行くためには、マジュロから飛行機でクワジェレン環礁の南端にあるクワジェレン米軍基地内にある空港に飛び、そこから2キロ離れたイバイ島までボートで行き、さらにイバイ島からクワジェレン環礁を約130キロ航海しなければならなかった。 イバイ島は0,5平方キロメートルに満たない小さな島で、となりのクワジェレン島にある米軍基地労働者とその家族12,000人が押し込められるように住んでいた。
ジョカネさんとはロンゲラップ出身者のコミュニティーに行ったときに会ったのだ。彼の小型トラックで島を案内して貰った。何を質問しても「maybe(とたぶん)」を連発するちょっと英語が苦手な若者だった。 ジョカネさんは父ビリエットと母アリミラさんの三男として生まれた。兄のアレットは1952年ロンゲラップ生まれロンゲラップ島で被曝した。次兄のロベルトさんはブラボー実験の時母親のお腹の中にいて、避難先のクワジェレンで生まれた。 その後、母アルミラさんは3度流産した。1964年にジョカネさんが生まれた。母のアリミラさんは1972年に甲状腺ガンで手術をし、2005年に肝臓ガンで亡くなった。 兄アレットさんは成長不良で身長が145pしか伸びなかった。原因は放射性ヨウ素の被曝による甲状腺ホルモンの異常であることが判った。いつも寒がって毛布をかぶっていたという。 ジョカネさんも子どもの時に甲状腺に小さな腫れ物があることが判った。甲状腺異常はロンゲラップ島出身の子ども達の半分以上に見られた。 ジョカネさんはロンゲラップ島でココナッツやヤシガニをたくさん食べた。まだ子どもだったので汚染されていると言われても理解できなかった。 帰国の前日、病院を訪ねると、薄暗い部屋でジョカネさんはベッドに横たわり痛みに耐えていた。「夕べからひどい痛みで殆ど寝られない」と顔をゆがめた。上半身だけ起き上がろうとするが痛みで起き上がれない。心配そうに奥さんが風船のように腫れ上がった右股をさすっていた。壁際に彼の息子が黙って腰掛けていた。「息子達にも悪い影響が出なければよいのだが」と子ども達の遺伝的影響を心配していた。 |
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