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アフガン フォト日記  2002

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5/10(Friday)

アフガニスタン滞在16日
 カブール市内のバザールを訊ねる。アフガニスタンの通貨アフガニーの両替商も路上に座り込み商売している。1ドル=35,000AF。 アフガニーは現政権の動向や大量のパキスタンルピーからの両替で一気に上下する。投機の対象になっている。

5/11(Suturday)

アフガニスタン滞在17日
 9:30 ISAFの定例記者会見で共同通信の清水健太郎カブール支局長にあい安井女史を訊ねたが、今はパンジシールに行っていて、今夜か明日帰る予定という。取りあえず事務所におじゃました。モスクワから応援で入っている有田 司記者とあう。取材目的を告げ、カンダハールの状況などを聞くが、安井さんが3月に行っいているので一番詳しいという。 劣化ウラン弾のことを話し、タリバンの戦車がカブール近郊に転がっているところを教えていただいた。有田さんは北部同盟とともに、カブール入りした人で、タリバンと北部同盟が対峙していたカラカン、ドゥサラギ、カライナスリ、ハラゼィ、バラが一番空爆が激しかったと教えてくれた。、米軍に破壊されたタリバンの戦車も転がっているという。 いったん、宿に帰り、サーベメーターを持って、現地に行ってみた。ドライバーとアマンが早く帰りたいのでやる気無く、途中で引き返す。壊れた戦車は劣化ウラン弾の攻撃ではなさそうだ。サーベメーターは何にも反応を示さなかった。 アマンの友人の家を引き払い、INSAF Hotelにチェックイン。一泊35$。 ここで、アマンと契約解除。結局1000$近く、アマンに渡してしまった。ほとんどたいしたことが出来ずに。 大通りに面しているのでうるさい。しょっちゅ停電する。懐中電灯はここでは必需品だ。 共同通信の人がここのホテルのレストランはおいしいと聞いたので夕食を食べた。うまかった久しぶりに食欲があった。食い過ぎ。

5/12(Sunday)

アフガニスタン滞在18日
 5時起床。外はすでに人々が動き出している。
 モノクロフィルムを詰めて早朝の市民生活を撮りたかった。デジカメも持って、おととい行った山の方に歩いていった。 子どもたちが早くから店を開ける準備をしていた。店の周りの掃除や、シャッターを開けていた。 水汲み場では大人に混じって子どもも天秤棒で担ぎあげていた。
 2時間ほど取材し、ホテルに戻ると、通訳にしてくれと、カブール大学学生のワイマンダ君が来た。$35で雇うことにした。しかし、まだ予定がはっきり決まっていないので、また連絡すると行って、再会する事にした。 9時過ぎ、共同通信支局に行く。安井さんが帰っていた。パワフルで明るい女性だ。ダリ語が出来るので現地人スタッフとダリ語で会話していた。 北部同盟と一緒にカブール入りした。アフガンが好きでずっと取材しているのだという。共同との契約カメラマンで居心地がいいのでいつまでも共同のお世話になっているという。 彼女に色々と貴重な情報をもらった。 ジャララバードでは軍閥のハジカディールが州知事で、ジャララバードとトルハムの道路沿いを支配している。トラボラ一帯はコマンダのハザラターリ、ハジザマンがそれぞれ住み分けている。彼らが許可を出してくれる。 トラボラに米軍調査団が来たとき、彼らはタリバンの残していった、コンピューターやビデオテープ、写真などを拾って持っていたがこれを、米軍調査団が高く買ってくれたので、大きな金儲けをした。 カブール北部のカラバーグ(南)とチャリカール(北)の間は北から攻めてきた北部同盟と首都カブール防衛のためのタリバンの防衛線がありここで激戦が行われた。米軍は北部同盟を支援するためタリバン陣地に激しい空爆を加えた。ここを、取材するためのガイドはマスード部隊のコマンダー、ハジャイマス(国防省の元で働いている。4個の師団長・48000人)の担当地域なので、かれに頼めばガイドを出してくれるという。 共同の近くに自宅があり訊ねると、英語の出来るカズィーナイーム秘書が応対してくれた。あさって、現地に案内してくれると言う。車は道が悪いので四駆を用意する、という。 アフガニスタン人の空爆被害者への米軍の補修請求問題を援助している、NGO Global Exchengがある。空爆の恐怖で気が狂ってしまった人がたくさんいるらしい。 Global Exchengeはサーテラワニ精神科病院で訊ねれば解るだろうと病院で聞いてみたが今はいないので連絡取れないと言う。 サーテラワニ精神科病院のヘターブ・コーカル院長と合い、明日患者が来るので10時来ることを約束。 さらに安いホテルを求めて、ワジール・アクアルハーン地区にあるHaseeb Gest House30$に変更。INSAF Hotelに通訳のマイワンダ君へのメッセージを残しチェックアウトした。真後ろの裏道が共同通信の事務所だった。

5/13(Monday)

アフガニスタン滞在19日
 通訳のMaiwand君と元ソ連大使館にいった。
 カブールに西の郊外は10年前各ムジャヒディンが戦った最前線。 アマヌッラハーンの時代に建てられた王宮が西の端の山の中腹に見えた。デマザング地区はほとんどの建物が激しく破壊されていた。 元ソ連大使館は住宅のない人々が住み着いていたが、今は強制立ち退きされひとっこひとりいなかった。 近くのハビビアハイスクールも例外ではなく至る所に銃弾の穴が開き、全く窓ガラスはない。 ここは来年創立100年を迎える伝統的なエリート校で、ここの卒業生はアメリカとレバノンに留学する資格を得られる。 机はなく床に座り込んで授業を受けていた。クラスの中には歳の行った青年も一緒に勉強している。 戦争で勉強を中断していった人なのかも知れない。
 夕方、サーテラワニ精神科病院で教えてもらった患者の家を訊ねた。 カブール空港から500メートル離れた住宅地に住むジャビー(30)さんは毎晩繰り返された空爆の恐怖で精神がおかしくなってしまった。 情緒不安定で、子どもたちに突然怒りだしたり、記憶が失われるの精神障害を引き起こした。 病院に入院し一旦は良くなったのだが、退院して自宅で過ごしていると、当時の記憶がよみがえりまた症状が悪くなってしまった。 夕方、訊ねると、自宅の2階に妻と母親、3人の子どもたちがいたが、 インタビュウーを始めると途中で気分が悪いと言っていなくなってしまった。 一家の大黒柱が働きに行けず、家族の生活も困窮している。 「ここに住んでいると当時の恐怖から逃れられないので、記憶が蘇ってきてしまう。どこか引っ越したいのだが、お金が無く引っ越せない」と母親のアムサさんが言う。 「早く、夫の病気が治って欲しい。子どもたちには父親の愛が必要なのだから」と妻のミナさん(28)が目頭を押さえた。 末の女の子のモウルサル(3)ちゃんは爆撃の衝撃波で窓に吹き飛ばされて、右腕に怪我をした。まだ手術の後が痛々しかった。 補償問題で助けてくれる人はいない。 側にいた兄は「治療にたくさんお金がかかった。アメリカが補償すべきだ」。 帰り際に奥さんのミナさんは「私たちのような人がいることを忘れないで下さい」と言って固く握手した。
 外に出ると日も沈みすっかり暗くなっていたが、空港からはへりが発着する爆音が聞こえてきた。 ホテルに戻ると、カズィーナイーム秘書がやってきて明日の取材について予定を確認しに来た。 車とガイド、セキュリティーで$50出すと言ったら笑って、ぐずぐず言っている。 もっと出せと言うことらしい。$100で決着。

5/14(Tuesday)

アフガニスタン滞在20日
 5時半起床。
 7時過ぎ、カズィーナイームが車で迎えに来た。ガードはいない。 珍しく安全運転のドライバーで一時間半ほどでカラバーグに着く。 カブールからタジキスタンやウズベキスタンに抜ける道だ。
 ドライバーはアーマヌロンさん。元タリブ兵士で途中から北部同盟に寝返った。 サライホジャ村の手前の左側にお墓がありグリーンの旗がはためいていた。 ここで民間人の乗っていたカブール行きのバスが米軍に空爆され18人が死亡した。 サライボジャ村は3年前、反タリバン勢力が強く、反感を募らせたタリバンは激しくこの村を破壊した。 いまも、ほとんどの家が破壊されたままだ。
 途中にMDC(ドイツの地雷除去NGO)が地雷原で除去作業をやっていた。 金属探知器を持ち、ひとつひとつ探して行く作業自体が危険で、気の遠くなるような作業だ。 現地作業員は簡単な胸当てと、透明なプラスチックのマスクと言ういでたちだ。 ソ連との戦争で破壊された戦車やその後の戦闘で破壊された戦車などいりまじている。 地雷もソ連時代から、特に最近はタリバンの首都防御ラインになっていたため北部同盟、タリバン両者が地雷を設置した。 しかし、今はその場所さえはっきりしない。 カズィーナイームさんもたくさん地雷を設置したという。 しかし、今はその人々もいなくなってしまったためどこに埋めてあるか解らない、と言う。
 バグラム空港方向に右折せずまっすぐ行くとルーテラボー村に着く。 ここにはたくさんの地雷被害者がいる。 アシーラちゃん(5)右腕、右足がない。 父親のアブドゥール・ハフィーズさんは「アシーラと一緒に遊んでいた二人の子どもを殺された。家と子供を一度に失ってしまった」といった。事故が起こったのは2年前、タリバンが撃った砲弾が転がっていて遊んでいて、爆発した。 カブールに帰る途中、左足義足の青年 グルアフガン君にあった。
コールアルシアーブラバード村

5/15(Wednesday)

アフガニスタン滞在21日
8時半MDCの訓練センターに行った。地雷捜索犬の訓練をしていた。 約10ヶ月かけて訓練した中で20パーセントは地雷犬に向いていないという。 犬は、人間に反応する対人地雷でも体重が軽いので、踏んでも爆発しない。 訓練場を見た後、市西部のシルセトン村の地雷除去作業を見た。 地雷犬が発見すると訓練を受けた、除去班が金属探知器で地雷の場所を特定し、腹這いになって、ナイフやショベルで慎重に土を掘り進んで行く。非常に根気のいる、危険な作業だ。作業にはヘルメットと顔面を覆うプラスチックのマスク、胸から足までをプロテクターで保護しての作業はこれから夏になると暑さで、一層大変になって行くだろう。 1時過ぎに作業終わり。 市中心部までMDCの車に乗せてきてもらった。 牧君の友人の店で昼食後、マイワンダ君に明日ジャララバードに行く車の手配を頼んだ。 5時半、マイワンダ君がライトエースのワゴンを見つけてきた。35$でジャララバードまで。明朝7時に出発予定。 ゲストハウスHaseeb Guest House に着くと疲れが一気に出てきた。 昼休み。牧君はどこかに出かけた。安井さんと今夜食事することを牧君が約束してきた。 7時半過ぎ。共同のカブール支局に安井さんを訪ねた。清水さんも一緒にヘラートレストランに行って、結局ごちそうになった。 ジャララバードでトラボラ取材の手続きを聞くことができた。

5/16(Thursday)

アフガニスタン滞在22日
出発時間を私が間違えて、7時だと思いゆっくる寝ているとワインマンダが部屋にお越しに来てくれた。6時。すでに、昨日見つけた、ドライバーと一緒に外で待っていた。 慌てて着替えをし、ホテル代を支払って、チェックアウト。 6時10分、ジャララバードに出発。 途中何度か通行税をドライバーが支払っていた。何者か解らないのだが、チェックポイントで、日本人ジャーナリストを乗せているとワイマンダが言うと、パスポートを見せろという。パスポートを渡したら何も読めず、直ぐ返してくれた。彼らはパスポートをなんなのか知らない。取りあえずパスポートを見せろと言ったみたいだ。 山岳地帯を走行中変な音にドライバーが気づき、調べると後ろの右側のタイヤがパンクしていた。15分ほどでスペアーと交換。暫く走ってから、パンク修理所で修理しついでに休憩。30分ほど。 昼近くになり気温はドンドン上がる。外の風は熱風。ひどいホコリ。 1時30分ジャララバード着。安いゲストハウスを探したが無く、来た時に泊まったアフガンレストランに決定。一泊25$。 ワイマンダーとジャララバードのガバナー、ハジザマンの自宅を訊ねたがカブールに行っていて、いつか得るか解らないと話しているうちに、大通りを護衛の車をつけた白いランクルザーが走っていった。家人はあの車で帰ってきたことが解り直ぐに、県庁舎に会いに行ったが会合で忙しく、代わりに、総務部長のような人、老人が手紙を書いてくれた。 「あす。日本人ジャーナリストがトラボラの取材に行く、面倒見てやってくれ。もし米軍にあったら、通してくれるように話してくれ」と書いてくれたらしい。ワイマンダ君の話。現地の司令官に宛てた手紙だ。  ワイマンダが4WDトラックをさがしてきた、35$で明日一日借りることにした。あす7時にホテルの前に来てもらう。

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